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江戸の地に最初に根拠地を置いた武士は平安時代末期から鎌倉時代初期の江戸重継で、のちの江戸本丸・二の丸あたりの台地上に居館を置いた。江戸氏が15世紀の関東の騒乱で没落すると、1457年に扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が江戸城を築城した。
太田道灌の江戸城はやがて後北条氏の支配下に入るが、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城。秀吉に北条氏旧領の関東八州を与えられた徳川家康が和暦の同年八月一日(八朔)に公式に入城し、居城とした。
徳川氏の入った当初は太田道灌築城のままの姿を残した比較的小規模な城だったが、慶長八年(1603年)に家康が幕府を開くと江戸城の増築に着手し、本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削してつくった神田川とを総構えとする大城郭に発展した。工事には全国の大名が動員された。完成をみたのは家康の孫徳川家光の代の1636年である。
本丸の天守閣は小天守閣と大天守閣の二段が複合するもので、大天守閣は五層であった。1623年に完成したが、1657年の明暦の大火で焼失した。再建のために天守台が築かれたが、保科正之が工事中止を主張したためそこで取りやめとなった。巨大な石垣の天守台はそのままで、今も残る。
その後も江戸城はたびたび火災を被った。本丸は1863年の火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えた。1868年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月に東京城に改名。翌1869年、東京遷都により皇城、1888年には明治宮殿の完成によって宮城と称された後、1948年、皇居と改称された。