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朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう 1328年 - 1398年 在位1368年 - 1398年)は、中国朝の創始者で初代皇帝。廟号は太祖。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武帝と呼ばれることが日本においてはほとんどである。

また、生まれた頃の名は、朱 重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱 興宗(しゅ こうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。

Table of contents
1 即位前
2 即位後
3 粛清
4 死後

即位前

末に貧農の家に生まれる。元末の政治混乱に伴い飢饉凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした。朱元璋だけは皇覚寺と言う寺に身を寄せて何とか生き延びる。ほとんど乞食同然の生活であったようである。

1351年(元至正十一年)紅巾の乱が勃発すると紅巾軍の一派である郭子興のもとに身を投じる。紅巾軍は韓林児を教祖とする白蓮教徒の集団で各地で反乱を起こした。朱元璋は郭の下で頭角を現し、郭の養女を妻に貰った。これが後の馬皇后である。

朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったと言う逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったと言う事もあるだろう。

朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさの目の前の事しか考えない行動に比べ、大略を持った先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かし、貧民の味方と言う立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込む事にによって朱元璋の力は増していった。

この時期に朱元璋は後の謀臣李善長と出会い、「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦のまねをすれば良い。」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。

郭の死後にはこの方面の紅巾軍の首領となり、彼の勢力を承継して1356年(至正十六年)、南京を占領する。南京を占領した朱元璋は名臣劉基の力を借り、1361年(至正二十一年)、湖北の陳友諒を討ち、1367年(至正二十七年)、蘇州の張至誠を打ち、淮南、江南を統一した。

1368年正月、南京にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を明とした。

即位後

同年八月、元の首都大都を落とし北平府と改称した。元は北へ逃げ北元となった。その後の国内掃討戦は1380年代まで続いた。

即位後、洪武帝は重農政策を打ち出し、商人を弾圧した。そして文字の獄と呼ばれる大弾圧を行った。光や禿などの字を使っただけで洪武帝が昔僧侶であった事をあてこすったと言われ殺され 、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので盗の字と同音の道の字を使った者がそれだけで殺された。

文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しないといけなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これらの要素により明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取る事を恐れるようになった。

また独裁権力の確立を目指し中書省を廃止、また六部、軍を皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないと言う布告を出した。

その一方、重農政策の元に1381年に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(戸籍台帳)を作り、里甲制、衛所制を実施して農民をそのまま兵士とする体制を確立した。

粛清

洪武帝は自分が老いてくるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。

この後継者の事を心配した洪武帝は1380年(洪武十三年)、丞相胡惟庸の謀反をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡藍の獄と呼ばれ、胡惟庸達の討殺により一旦は終結したものの、十年後の1390年(洪武二十三年)、再び蒸し返される。自分の寿命が近づいた事を覚悟していたのか、前回の物よりもはるかに激しくなり3万を越える人数が討殺された。

これでやっと粛清の嵐も収まったかと思った1392年(洪武二十五年)、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の朱允を皇太孫としたが、幼い後継者に変わり、更に心配に成り、またしても粛清を始めた。

洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年、死去する。

死後

洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で即位して建文帝となった孫と息子の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣にはあれだけ猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった。(若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう)

戦いの上手い功臣達はすでに殺し尽くされていたので建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。

現代に残っている洪武帝の肖像画には二種類ある事が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をしたひどい人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものである。豊臣秀吉にも似たような話があるが、洪武帝の場合本人の二重性格を表しているようで面白い。

文字の獄のような政策は政治上の必要から行われた事もあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で肉刑を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。

洪武帝と永楽帝が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝に全て引っくり返され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動く事になる。


次代:
建文帝

zh-cn:朱元璋





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