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若くして江戸に出て、古賀茶渓、佐久間象山などに学ぶ。さらに各地を遊学して備中松山藩の山田方谷の教えを受けた後帰郷し、藩政に参画、家老に登用されて藩政改革に尽力する。戊辰戦争では長岡藩の中立をはかり、旧幕府方と新政府方の調停を行ったが新政府軍に受け入れられず、北越戦争に奥羽越列藩同盟側に参戦して長岡藩兵を率いた。新政府軍に敗れ、占領された長岡城奪還戦で負傷。再び長岡城を占領され、友軍の会津藩を目指して落ちのびる途上で死去した。
彼は藩政改革で軍制の近代化を計り、北越戦争ではエドワード・スメル等から買い上げたガトリング砲や新潟で買い集めた最新鋭の銃砲を用いて新政府軍を苦戦させたが、従わない民衆を苦しめ、また戦争の結果長岡の町を荒廃させたために長岡の人々の恨みを買い、墓は滅茶苦茶にされたと言う。そのため、現代でも評価は二分されている。
さほど背は高くなかったが、鳶色の鋭い目を持ち、声がよかったと言う。藩命にたびたび背き、様々叱咤されたが、本人は当然の風にしていた。彼は福沢諭吉と思想について打ち解けるほどの人物だったが、藩がスイスのように独立すると言うことを望み、あくまで藩の政治家として生きたという。「塵壷」という名前で知られる日記を残した。
明治維新後、長岡の復興に尽力した米百俵でしられる小林虎三郎は親類である。