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出羽国庄内藩清川村生まれ。幼名 元司。
天保十四年 八郎は清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。かなり優秀であったようだ。 弘化三年には後の天誅組総裁 藤本鉄石と会い親交を深めた。 弘化四年 江戸に出て古学派の東条一堂に師事。才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固持。 安積良斉に転塾。 その傍ら、北辰一刀流の開祖 千葉周作の玄武館で剣を磨き免許を得る。その後、清河塾開設。(江戸市内で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった)
万延元年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕、尊王攘夷の思想が強まる。 この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。
文久二年 八郎を盟主として虎尾の会結成。発起人は山岡鉄太郎(鉄舟)他十五名。 横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画をたてたが、この密計が幕府の知るところとなる。しかも文久元年には八郎に罵詈雑言を浴びせてきた者を八郎は斬り捨てたため、幕府に追われる立場となっていた。
八郎はこのような事情から京都に潜伏したり、東西諸国を遊説してまわり尊攘倒幕の内約をとりつけにまわった。
その後、松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(一、攘夷の断行、二、大赦の発令、三、天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用。浪士組が結成される(二三四名)。八郎は上手く幕府を堕し抜いた。
文久三年二月二十三日、将軍 徳川家茂上洛のさい、その前衛として八郎は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。京都に到着した夜、八郎は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく、尊王攘夷の先鋒にあると述べる。 これに反対したのが、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨らであった。 二百名の手勢を得た八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。 八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久三年四月十三日 幕府の刺客、佐々木只三郎ほか六名によって麻布一ノ橋で討たれた。 享年三十四歳。 八郎死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し庄内藩預かりとした。