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日本書紀(にほんしょき、やまとぶみ)は、日本における伝存最古の歴史書である。舎人(とねり)親王らの撰で、漢文・編年体を取る。続日本紀の記事に基き、720年(養老4)に成立したとされる。神代から持統(じとう)天皇の時代までの歴史について記されている。また「紀30巻、系図1巻」とあるが系図は伝わっていない。
続日本紀には「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。また、中国では紀伝体の史を「書」(「宋書」「漢書」など)と呼び、編年体のものを「紀」と呼んでいたので、日本書紀は編年体であることから、「日本紀」が正式名だったと言われている。
7世紀終りに編纂された帝紀・旧辞や、朝鮮関係史料や諸氏の伝承などを取り入れているとされる。なお、620年(推古28)に編纂されたとされる天皇記・国記の方がより旧い史書であるが、645年(皇極4)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。この後を受けて、歴史書が編纂されている。
| Table of contents |
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2 内容の特徴 3 構成 4 現存本 5 刊行本 6 外部リンク 7 関連項目 |
『日本書紀』の編纂は国家の大事業であり、天皇家や各氏族の歴史上での位置づけを行うという、極めて政治的な色彩の濃厚なものである。編集方針の決定や原史料の選択は、政治的に有力者が主導したものと推測されている。朝廷支配の正当性を歴史によって説明しようとする意図が強く働いており、ことに暦の知識のなかった時代まで編年体の輪にはめ込もうとして文章をいろいろ潤色しているので、年代が遡るほど史料としての信頼性は少ない。
『日本書紀』の文体・用語など文章上の様々な特徴を分類して研究・調査されている。その結果によると、全三十巻のうち巻一・二の神代紀と巻二十八・二十九・三十の天武・持統紀の実録的な部分を除いた後の二十五巻は、大別して二つに分けられるといわれている。その一は、巻三の神武紀から巻三十の允恭・安康紀までであり、その二は、巻十四の雄略紀から巻二十一の用明・崇峻紀まである。残る巻二十二・二十三の推古・舒明紀はその一に、巻二十四の皇極紀から巻二十七の天智紀まではその二に付加されるとされている。巻十三と巻十四の間、つまり雄略紀の前後に古代史の画期があったと推測されている。
暦日に関する研究は戦前に既に完成していたが、当時の状況はその研究の公表を許さず、戦後ようやく発表されたのであった。『日本書紀』は、完全な編年体史書で、神代紀を除いたすべての記事は、年・月・日(干支)の様式で記載されている。記事のある月は、その月の一日の干支を書き、それに基づいてその記事が月の何日に当たるかを計算できるようになっている。たとえば憲法十七条の制定は「推古十二年夏四月丙寅朔戊辰(へいいんさくぼしん)」であるが、これは四月一日の干支が丙寅であって、戊辰は三日であることを示している。また研究は、中国の元嘉(げんか)暦と儀鳳(ぎほう)暦の二つが用いられていることを明らかにした。神武即位前紀の甲寅(こういん)年十一月丙戌(へいじゅつ)朔から仁徳八十七年十月癸未(きび)朔までが儀鳳暦、安康紀三年八月甲申(こうしん)朔から天智紀六年閏十一月丁亥(ていがい)朔までが元嘉暦と一致するという。元嘉暦が古く、暦が新しいにもかかわらず、『日本書紀』は、新しい暦を古い時代に、古い暦を新しい時代に採用している。既述のように二組で撰述したと推測されている。
元嘉暦とは、中国・南朝の宋の何承天(かしょうてん)がつくった暦で、元嘉二十二年(445)から施行され、百済にも日本にもかなり早く伝来したといわれている。儀鳳暦とは、唐の李淳風(りじゅんほう)がつくって高宗の麟徳(りんとく)二年(665=天智4)から用いられはじめた麟徳暦のことを指すと考えられている。
ところで、最近の研究から純漢文体であると思われてきたが、語彙や語法に倭習が多くみられることが分かってきている。倭習とは、日本語的発想に基づく誤用や奇用である。和臭とも書かれる。
『紀』は、552年(欽明13)に百済の聖明王、釈迦仏像と経綸を献ずる、としている。しかし「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺縁起」は、538年(宣化3)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように『紀』には、改変したと推測される箇所があることが、いまや研究者の間では常識となっている。
編纂方針
成立過程
紀年・暦年の構成
『日本書紀』の誤りは、月朔干支(げつさくかんし)の「閏(うるう)」の字を脱落させていることである。内容の特徴
書紀編者の述作
白雉三年(653)四月の造籍記事は、大化改新の詔と重複するようなその内容、および詔の出された大化二年(646)から数えて六年目に当たることの両面からみて『日本書紀』編者の述作とみるのが通説である。黥面文身(げいめんぶんしん)
『紀』は、興味深い記事も載せている。武内宿禰(たけのうちすくね)の東国からの帰還報告に、蝦夷(えみし)の男女が文身しているとある(景行27年2月条)。文身とは、顔以外の身体に入れ墨をすることであり、黥面とは顔に入れ墨をすることである。
履中(りちゅう)天皇が住吉仲(すみのえなか)皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子(あずみのむらじはまこ)に、罰として黥面をさせた。河内飼部(かわちのかいべ)の黥面をやめさせた(履中元年4月条、同5年9月条)。宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)とした(雄略11年10月条)。阿曇野連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことであり、また鳥の飼育をするのが鳥飼部である。これらは、生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。乙巳(いっし)の変
645年(皇極4)に中兄(なかのおおえ)皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我馬子を飛鳥板葺(いたぶき)宮の大極殿で暗殺したと『紀』に載せているが、かなりの潤色が為されていると云われている。第一、大極殿はなかったと考えられている。遣隋使
遣隋使は、600年(推古8)に上表文(国書)も持たず、隋の高祖文帝に謁見している。この時の遣使は小野妹子(おののいもこ)である。皇帝から日本の国情を聴かれて答弁をするが、日本の国内体制が国際情勢に遅れていたため、中国側に理解してもらえず、なすすべもなく帰国せざるを得なかった。つまり律令体制国家に成長していなかったので、中国側の理解が得られなかったことを反省し、あわてて冠位12階や十七条の憲法をつくり、それを手みやげに七年後の607年(推古15)に第二回を派遣することになる。『紀』はこの第一回目の失敗を書いていない。因みに第二回目は、国書を持たせるが、中国皇帝の神経を逆なでするような内容であった。あの有名な「日出ずる処の天子、……」の上表文であった。(→遣隋使に詳しい。)構成
現存本
刊行本
外部リンク
関連項目