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2 時間をめぐる哲学的諸考察 3 関連項目 |
科学的には、現象の周期運動の周期をもって、時間を定義する。自転、公転などがそれにあたるが、測定技術の進歩により、それらの運動は周期が一定していないことが明らかにされ、より精密な原子の周期運動によって測定することとなった。これが原子時計の原理である。
光の速度は測定者の速度に関わらず一定である。これを光速度一定の法則と呼ぶ。どのような観測系から見ても光速度が一定なら、時間変化は観測系に依存するとしなければならない。なぜなら速度は時間と空間に依存するからである。すると各観測系ごとに時間変化は異なるという結論が導き出される。地上に固定された人と、飛行機で移動している人とでは、時間の経ち方は異なるのである。
アインシュタインは以上の考察から、時間が独立変数でなく、空間の性質であると結論づけた。正確には時空連続体が宇宙の本質であり、観測系や重力によってそれは変化し、歪められるのである。
時間はエントロピーとも関係している。簡単にいえばエントロピーが増大する方向に時間は流れるのである。時間の流れる方向を時間の矢と呼ぼう。まずエントロピーが増大するとはどういうことか?エントロピーは確立の高い方に増大して行くのである。例えばコイントスを考えよう。十枚のコインを投げて表が出た数と裏が出た数を数えるのである。ほぼ表が五枚、裏も五枚となる確立が最も高い。つまりこの状態が最もエントロピーが高い状態なのである。逆にエントロピーの最も低い状態とは表、あるいは裏が十枚出る、という状態である。コイン十枚全てを表側にし、何回かコイントスを繰り返す。するとコインは表、裏ともに五枚ずつの状態に近くなってゆく。つまりこの方向に時間の矢は向いている、ということなのである。さて我々の宇宙を考えよう。エントロピーが増大する方向に時間が流れるのだから宇宙の初期状態はエントロピーが低かったはずである。この状態が選ばれる確立は天文学的値であり、到底実現されそうにない。それゆえ理論物理学者はこれを神の一突きと呼んでいる。しかし並行宇宙(並列世界)という考え方を用いればこの神の一突きは不要となる。実際この考え方は量子力学においても有用なので我々の世界は実は並行宇宙であるかもしれない。
時間については多くの哲学者が様々な考え方を提出して来た。そこで扱われる問題には、次のようなものが含まれる。
存在論的には、時間は林檎のような物ではないし、戦争のような出来事ではない。赤さ(色)や冷たさ(温度)のように特定の物に備わっている性質やそのカテゴリーでもない。
カントは時間、空間の認識様式でもって、人間は変化を認識すると考えた。この場合時間は空間のメタファーとして捉えられていることに注意したい。西洋の伝統では、事象は空間的、視覚的に捉えられることが多いのである。そもそもロゴスという言葉は、ごちゃごちゃした塊を見やすいように整理分離するという意味であったのである。
ベルグソンは時間についての理解が空間化された(空間になぞらえて考えられた)時間についての理解、認識であることを批判し、人間が経験しているのはそのような時間ではないと説いた。
ベルグソンは時間を連続体として捉えたが、バシュラールは逆にそれは瞬間の連続として考えた。我々が感じる時間現象は常に現在、言い換えれば瞬間でしかないからである。記憶にある瞬間瞬間と現在瞬間が比較されるとき、時間概念が誕生するわけである。またそこから瞬間瞬間をより高く深く生きることが、よりよく時間をすごすこととなるバシュラールの思想が開花することになる。
仏教の時間理解は基本的に現在指向である。それは前世も来世も説かなかったブッダの現世指向に起因するものらしい。龍樹に代表される空思想においても時間は、現在意識を軸に考察されている。大森荘厳はこの時間理解を元に、独自の思索を展開していった。科学的時間
時間をめぐる哲学的諸考察
時間をめぐる考察が厄介であることを示すためにしばしば引用されるアウグスティヌスの有名な言葉に、「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない」というものがある。カント
ベルグソン
バシュラール
仏教