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斎藤一

斎藤 一さいとう はじめ 天保十五年一月一日~大正四年九月二十八日、1844年1915年

本名を山口一という。明石藩。家柄は父 山口祐助が江戸へ出て御家人株を買って徳川家直臣であった。刀の流儀は一刀流もしくは無外流ともいわれている。

斎藤一と名を変えたのは十九歳の時、江戸で刃傷沙汰を起こし京へ逃げ延びた時に変えた。この時脱藩。 江戸へ出た時に近藤勇の道場 試衛館に出入りしていたともいわれている。

文久三年三月十日 芹沢鴨近藤勇ら十三名が新選組の前進、壬生浪士組を結成。京都守護職御預かりとなる。その日、第一回の同志募集のさい斎藤一ほか十一人が入隊した。(試衛館以来の隊士で近藤らと一緒に上洛したと言われる事もあるが、斎藤は近藤らと一緒に上洛していない)

その後、隊士は百名近い人数となったため、幹部を選ぶ事になる。斎藤は二十歳にして副長助勤に抜擢された。斎藤は隊内でも沖田総司に勝るとも劣らない腕で、一、二を争う使い手であった。(左利きであったといわれているが、真意は不明。華麗な太刀筋でなく、より実戦的な剣の使い手であったようだ)のち、組織再編成のさいには三番隊組長を務め、沖田、永倉新八と共に撃剣師範もつとめる。

近藤は斎藤をよく信頼していたという。近藤の懐刀のような存在であった。

慶応三年三月 伊東甲子太郎御陵衛士を結成して新選組を離脱するさい、間諜として斎藤は参加する。そして、伊東の陰謀(近藤暗殺)を知るところとなり伊東に近藤を自分一人で斬ると進み出て新選組に帰隊。近藤に伊東の陰謀を告げる。そして、伊東は油小路で討たれる事になるのである。(油小路事件

慶応三年十二月七日の天満屋事件でも斎藤の活躍はめざましかった。乱戦の中、刀をよく振るった。

鳥羽伏見の戦い甲陽鎮撫隊と戦い、会津へ。慶応四年三月、旧幕軍と共に宇都宮城攻めたさい土方歳三が足に重症を負う。土方に替わって新選組の隊長を務めたのが斎藤であった。(この時、名を山口二郎に変えている)

慶応四年四月 新選組は既に会津に帰国していた松平容保より白河出張を命ぜられる。しかし、白河城は官軍の手に落ちていた。その帰路、傷の癒えた土方と合流。

その後、土方統率のもと斎藤も会津で奮戦するがいよいよ会津も陥落寸前の折、土方は旧幕軍と合流して北海道へ向かう事を斎藤に打ち明ける。しかし、斎藤は、新選組は会津公からの多大な恩恵を受けて旗本までなったと主張し、会津と死ぬ事を選択。ここで、長年の盟友土方と袂をわかった。

会津藩が九月二十二日降伏すると斎藤は塩川村謹慎組に身を寄せる。

明治二年一月 会津藩は斗南三万石で再興を許される。斎藤は斗南藩士として下北半島へ移住を認められる。この時名のった名前が、一戸伝八。その後、松平容保から姓名をもらい藤田五郎と名のる。また、容保の仲人で結婚。高木時尾と結ばれた。

明治十年二月 東京に出て警視局の警部補に任ぜられる。同年五月には西南戦争に出兵。抜刀斬り込みに参加し大砲二門を分捕る手柄を上げる。

その後、警察を退職して東京高等師範学校などに勤務。

大正四年九月二十八日 床の間に座ったまま大往生を遂げた。享年七十二歳。





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