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本願寺道路

本願寺道路 (別名「本願寺街道」「有珠街道」などと呼ばれている、明治時代初頭に、東本願寺の僧侶、現如上人が中心になって作った、国道230号の基礎となった道路。)

Table of contents
1 「本願寺道路」の全開削・整備
2 本願寺道路開削以前の蝦夷地での調査
3 道路開削までの経緯
4 作業の前段階
5 作業開始
6 本願寺道路の内容
7 「本願寺道路」のコース
8 開通後の歴史
9 関係する記念碑、史跡等
10 特記
11 関連項目

「本願寺道路」の全開削・整備

北海道における「本願寺道路」といっても、実は4ルートある。(当時の地名の後に現在の地名等の説明をしている都合上、読みづらいかもしれませんがご了承ください。)

となるが、ここでは最も距離が長く、開削に難を極めた4番目の道路についての説明が主になります。

本願寺道路開削以前の蝦夷地での調査

 文化44年(西暦1807年)、近藤重蔵による、石狩~虻田「あぶた」間の調査のために札幌から豊平川をさかのぼっての調査。

 改化2年(1845年)から5年間、及び、安政5年1855年から3年間、松浦武四郎による二度にわたる実地調査。(松浦は厳密には、3度蝦夷地に渡っているが、この3度目のものは、前述の近藤により成された踏査の確認作業である。コースは虻田~石狩樋平(とひぴら)・津石狩(現在の「対雁」~ついしかり)ルートで、湿地帯や豊平川支流が積雪や氷結の為に渡り易くなる、冬期間に行われた。)いずれにせよ、現地のアイヌ人の案内なしでは不可能であった。その結果、「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便(弁)如何ばかりならん(む)」と、江戸幕府に対しそのルートの必要性を説いた事は、有名話でもあり、後の明治時代に至って、ロシア南下政策対策と相まって、当道路を開削、開通する根拠ともなったといわれている。

道路開削までの経緯

東本願寺はもともと、徳川家の恩顧があり、大政奉還後まもなくである、慶応44年年始に行われた宮中会議に於いて、同寺焼き討ちの案も出された。そのことは濡れ衣や誤解でもあった。東本願寺側は、当時、二十一世門主の大谷光勝(厳如上人)であり、その妻は文字通り皇族出身の嘉家宮和子であった。その実兄でもある山階宮晃親王は、その宮中会議の経過を耳に入れ、実妹のいる同寺のお取り潰しの実現を懸念し、「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出させることにより事なきを得たという。

一方、当初は東京に置かれていた北海道開拓使(長官は、各省庁大臣と同格とされた)は、道央の地札幌が選ばれ移管された。前述のとおり、ロシアの南下政策の脅威に対抗するため、また、それに伴って、大量の移民を入植させるためにも、当時のすでに北海道の拠点として大きく開けていた箱館(明治2年、「函館」に改称)から札幌へのルート開拓は急務であった。しかしながら、幕末から維新にかけての内戦によって疲弊し、資金を使い果たし、財政難に陥っていた時の政府には、いくら隣国の脅威が差し迫っているとはいえ、北海道の道路を含めた開拓にまで手がける事は不可能で、薩長土肥等の勤皇雄藩も同様であった。そんな台所事情の新政府が苦し紛れに目をつけたのが、全国に宗門徒を抱えていた本願寺であった。

かといって、東西にかかわらず、両本願寺側も、既にいくつかの新政府からの財政援助に応じていた過程、決してさらなる要求に応えられる状態ではなかった。西本願寺は、京都の賀茂川のいくつかの架橋工事、不換紙幣と正貨との多額なる交換などといった、多大なる資金の提供を新政府の為に既に行っていた。そこで、大同小異ではあったのだが、時の太政大臣、三条実美より東本願寺側に道路開削についての密談があった。よって形式上は、「東本願寺から明治政府に出願された」形がとられたのだが、実情は、「同政府からの援助協力依頼」であった。「援助協力依頼」とはいっても、前項の経緯より、政府に対して断る事は不可能であったため、実質は「強制的な命令」ともいえる。

作業の前段階

  • 明治2年6月5日、時の政府に対して(表向きの)東本願寺側から出願が提出される。

その主旨は
  • (1)新道切開
  • (2)農民移植(移民奨励)
  • (3)教化普及
の三点項目であった。

作業開始

  • その後、3日間の函館滞在のうちに開拓使函館出張所にて、「新道開削」及び「蝦夷地に於ける新寺創立」の打ち合わせを東久世長官を交えて行い、人員振り分けを行った。随行した大部分の僧侶達は、新道開削へと回された。
  • 明治3年7月24日、現如上人は27名を伴い、小樽経緯で札幌入り。東本願寺管刹境内地を検分した。

その検分した場所はまさに「山鼻」で、現在の南7条西8丁目にあたり、現在、「東本願寺」の「真宗大谷派札幌別院」が建っている場所である。なお、時の政府から下賜されたその地に管刹(寺)が設立されたのは、検分後まもなくで、そこが「札幌別院」と改称されたのは、明治9年のことである。
  • 翌25日、希望者29名に対し帰敬式を行い、彼ら希望者は帰京した。

かくして(他の3つの路線を含め)道路開削が開始されることとなった。

本願寺道路の内容

「本願寺道路」のコース

(前項目との重複有り。現在の地図を元に確認したため、他の項も含めて、詳しい方や研究者の加筆修正のご意見も、できればお願い致します。)

「オサルベツ」=「尾去別」(現在の「伊達市長和」)~(有珠山・洞爺湖東側)~「ソウベツ」 (現;「壮瞥」)~「ニッポキナイ」(別の文書では「ニボツキナイ」。名称からは現在の地名特定できず。)~「ヌツキベツ」(「貫気別」のことか?別書では別の地名かもしれないが「キヌベツ」ここが別地名とするなら、現在の「喜茂別」「キモベツ」かどうかは不明。「シリベツ」(「「喜茂別町」内の「尻別」か?)~「アンユク」(全く不明。)~「ムイナイ」(「無意根」と思われるが、現在は「無意根山」を指すので、その麓なのかどうかは不明。)~「ケレベツ」(この位置関係からでは不明。)~「ウスベツ」(現:「薄別」。定山渓「じょうざんけい」と中山峠間の温泉地。)~「定山渓」~「ニセイオマップ」(後に「ミソマップ」と日本人が勝手に訛り、明治から現在まで「簾舞(ミスマイ)」と呼ばれている。)~「石切山」(現:「石山」)の旧市街地(ここもかつては、旧国道230号線であった。)~現在の石山陸橋のある辺りから迂回して北上し、地下鉄南北線が地上に出ている部分(真駒内「まこまない」駅以北)とほぼ平行に通り~「平岸」(現在の「南平岸駅」と「澄川(すみかわ)駅」との間)と至っている。

余談だが、今述べた、現在の国道230号線から分岐して北上する、旧石山市街地から石山陸橋、地下鉄に沿って通り、平岸を貫いて走る道路は、現在「平岸街道」と呼ばれ、この道路自体が、「旧本願寺道路」に基づいて作られたとされる。

開通後の歴史

冬の厳しい寒さや、春から秋にかけての蜂や毒虫の害、蝮や狼との戦い、羆(ひぐま)との遭遇などのアクシデントにもめげず、明治4年10月工事完了。突貫工事ながらも、当時は徒歩が主だった時代に、「馬も通行可能」という道路は画期的だった。また、以前は、「獣道」に毛の生えた程度だった、札幌-定山渓の間も、しっかりとした道がつけられることとなった。札幌に近すぎたために宿泊場としては用いられず、どちらかというと、休憩所扱いであった、(旧)簾舞通行屋も、現在の簾舞中学校付近の国道230号線上に建てられたという。

しかしわずか2年後の、明治6年に現在の国道36号線の基礎ともなるべく、「札幌本道」が開通したため、「本願寺街道」を利用する者は激減した。

一度廃止された(旧)本願寺道路であったが、明治19年に札幌中央部から徐々に拡張工事が行われた。石切山~定山渓間も例外ではなく、結果、(簾舞に於いては、現在の旧国道230号線が、「新・本願寺街道」として蘇り、道幅も約5.4m、馬車も通れるくらいの、当時としては画期的な道路が出来上がった。それに伴って、通行屋も現在ある位置に移され、中山峠や定山渓にあるそれら同様、駅逓所としての役割も兼ねるようになった。(新街道沿いに移された後の方の「簾舞通行屋」は、現在、「札幌市有形文化財」に指定され、当時の資料館も兼ねている。)「今から130年以上も前に突貫工事で作られた、幅3m程度の道」である。その後、崩落したり、獣道化し草木が生い茂り、田畑にされ、人家が建ち、国道拡張工事などで99%は残っていないが、後述するようにわずか2箇所ほど、ほぼ当時のままで残っている。保存会があり後世に伝える動きもあるので、詳細は述べられないのが残念でもある。

関係する記念碑、史跡等

  • (1)「東本願寺道路起点碑」(伊達市)
  • (2)「現如上人之像」(中山峠)
  • (3)「本願寺道路終点碑」(札幌市平岸)
  • (4)他、「中山峠」、「札幌市簾舞」にも、旧同街道跡沿いに「旧本願寺道路跡」を示す碑があり、その「経緯や内容、残存している近辺の経路を示す板標識」が簾舞中学校入り口付近に、後述する簾舞保存会によって設置された。
  • その旧街道に基づいて直線化や拡張された旧国道230号線のうち、定山渓から中山峠にかけては、薄別川に架かる橋などが崩落してしまい、藪に埋もれている箇所もあり、通行不可能であるが、中山峠から喜茂別町へ続く旧国道は残存しており、カーブや坂も多く、舗装箇所も少なく道路状況の悪い箇所もあるが、夏場は通行可能である。明治30年代に設置されたと思われる、石製の一等水準点も数箇所道路脇にも残存している。時代から推測して、道路の拡幅拡張工事のなされた頃でもあり、馬車の通行を想定した、当時の拡張やカーブの緩和化の為の工事から、更に整備して自動車道に利用したことにより、全区間が旧本願寺そのものに沿った道筋ではないにせよ、周囲の景色等など、当時の面影を偲ぶ事は十分可能である。

  • 「旧黒岩家簾舞通行屋(札幌市有形文化財)」ここは、「新本願寺道路」つまり、「国道230号線の旧道」沿いにある。「本願寺道路」「定山渓鉄道」など資料館にもなっている。
  • 実は、「旧本願寺道路跡」が、130年以上たった今も、簾舞中学校を挟む形で、離れて二箇所存在している。黒岩家のご子孫方と、地元連合町内会などの有志が保存会を作り、後世に残すべく保存整備に努めているからである。

特記

  • なお、「本願寺道路(街道)終点の地」は、前述の(3)の石碑のある位置かどうかは、はっきりしていない。本来、この道路を突貫工事的に開削したのは、「ロシア南下政策」に対抗するべく、人員、馬、武器、食料等のための補給路として作られたものであり、本来は、現在の北海道庁付近まで作られるべき性格のものである。札幌側も年々増える人口に対応するために、周辺の道路を整備していて、平岸村中心部と札幌都心部とは、時代相応に既に道路拡幅整備が終わっていたであろうし、同村南端の、「本願寺道路の終点碑」があった付近で、突然道路がなくなるということも考えられなかったからである。確かに、この付近は拡幅工事はされたであろうが、工事が終わった場所であるのと同時に、この碑の立つ地が正式に「本願寺道路」の終点であったという証拠はない。「この辺りで開削工事が終了した」という、程度に捉えた方がよい。

関連項目





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