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| Table of contents |
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2 本願寺道路開削以前の蝦夷地での調査 3 道路開削までの経緯 4 作業の前段階 5 作業開始 6 本願寺道路の内容 7 「本願寺道路」のコース 8 開通後の歴史 9 関係する記念碑、史跡等 10 特記 11 関連項目 |
改化2年(1845年)から5年間、及び、安政5年1855年から3年間、松浦武四郎による二度にわたる実地調査。(松浦は厳密には、3度蝦夷地に渡っているが、この3度目のものは、前述の近藤により成された踏査の確認作業である。コースは虻田~石狩樋平(とひぴら)・津石狩(現在の「対雁」~ついしかり)ルートで、湿地帯や豊平川支流が積雪や氷結の為に渡り易くなる、冬期間に行われた。)いずれにせよ、現地のアイヌ人の案内なしでは不可能であった。その結果、「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便(弁)如何ばかりならん(む)」と、江戸幕府に対しそのルートの必要性を説いた事は、有名話でもあり、後の明治時代に至って、ロシア南下政策対策と相まって、当道路を開削、開通する根拠ともなったといわれている。
一方、当初は東京に置かれていた北海道開拓使(長官は、各省庁大臣と同格とされた)は、道央の地札幌が選ばれ移管された。前述のとおり、ロシアの南下政策の脅威に対抗するため、また、それに伴って、大量の移民を入植させるためにも、当時のすでに北海道の拠点として大きく開けていた箱館(明治2年、「函館」に改称)から札幌へのルート開拓は急務であった。しかしながら、幕末から維新にかけての内戦によって疲弊し、資金を使い果たし、財政難に陥っていた時の政府には、いくら隣国の脅威が差し迫っているとはいえ、北海道の道路を含めた開拓にまで手がける事は不可能で、薩長土肥等の勤皇雄藩も同様であった。そんな台所事情の新政府が苦し紛れに目をつけたのが、全国に宗門徒を抱えていた本願寺であった。
かといって、東西にかかわらず、両本願寺側も、既にいくつかの新政府からの財政援助に応じていた過程、決してさらなる要求に応えられる状態ではなかった。西本願寺は、京都の賀茂川のいくつかの架橋工事、不換紙幣と正貨との多額なる交換などといった、多大なる資金の提供を新政府の為に既に行っていた。そこで、大同小異ではあったのだが、時の太政大臣、三条実美より東本願寺側に道路開削についての密談があった。よって形式上は、「東本願寺から明治政府に出願された」形がとられたのだが、実情は、「同政府からの援助協力依頼」であった。「援助協力依頼」とはいっても、前項の経緯より、政府に対して断る事は不可能であったため、実質は「強制的な命令」ともいえる。
「オサルベツ」=「尾去別」(現在の「伊達市長和」)~(有珠山・洞爺湖東側)~「ソウベツ」
(現;「壮瞥」)~「ニッポキナイ」(別の文書では「ニボツキナイ」。名称からは現在の地名特定できず。)~「ヌツキベツ」(「貫気別」のことか?別書では別の地名かもしれないが「キヌベツ」ここが別地名とするなら、現在の「喜茂別」「キモベツ」かどうかは不明。「シリベツ」(「「喜茂別町」内の「尻別」か?)~「アンユク」(全く不明。)~「ムイナイ」(「無意根」と思われるが、現在は「無意根山」を指すので、その麓なのかどうかは不明。)~「ケレベツ」(この位置関係からでは不明。)~「ウスベツ」(現:「薄別」。定山渓「じょうざんけい」と中山峠間の温泉地。)~「定山渓」~「ニセイオマップ」(後に「ミソマップ」と日本人が勝手に訛り、明治から現在まで「簾舞(ミスマイ)」と呼ばれている。)~「石切山」(現:「石山」)の旧市街地(ここもかつては、旧国道230号線であった。)~現在の石山陸橋のある辺りから迂回して北上し、地下鉄南北線が地上に出ている部分(真駒内「まこまない」駅以北)とほぼ平行に通り~「平岸」(現在の「南平岸駅」と「澄川(すみかわ)駅」との間)と至っている。
余談だが、今述べた、現在の国道230号線から分岐して北上する、旧石山市街地から石山陸橋、地下鉄に沿って通り、平岸を貫いて走る道路は、現在「平岸街道」と呼ばれ、この道路自体が、「旧本願寺道路」に基づいて作られたとされる。
しかしわずか2年後の、明治6年に現在の国道36号線の基礎ともなるべく、「札幌本道」が開通したため、「本願寺街道」を利用する者は激減した。
一度廃止された(旧)本願寺道路であったが、明治19年に札幌中央部から徐々に拡張工事が行われた。石切山~定山渓間も例外ではなく、結果、(簾舞に於いては、現在の旧国道230号線が、「新・本願寺街道」として蘇り、道幅も約5.4m、馬車も通れるくらいの、当時としては画期的な道路が出来上がった。それに伴って、通行屋も現在ある位置に移され、中山峠や定山渓にあるそれら同様、駅逓所としての役割も兼ねるようになった。(新街道沿いに移された後の方の「簾舞通行屋」は、現在、「札幌市有形文化財」に指定され、当時の資料館も兼ねている。)「今から130年以上も前に突貫工事で作られた、幅3m程度の道」である。その後、崩落したり、獣道化し草木が生い茂り、田畑にされ、人家が建ち、国道拡張工事などで99%は残っていないが、後述するようにわずか2箇所ほど、ほぼ当時のままで残っている。保存会があり後世に伝える動きもあるので、詳細は述べられないのが残念でもある。
「本願寺道路」の全開削・整備
北海道における「本願寺道路」といっても、実は4ルートある。(当時の地名の後に現在の地名等の説明をしている都合上、読みづらいかもしれませんがご了承ください。)
となるが、ここでは最も距離が長く、開削に難を極めた4番目の道路についての説明が主になります。本願寺道路開削以前の蝦夷地での調査
文化44年(西暦1807年)、近藤重蔵による、石狩~虻田「あぶた」間の調査のために札幌から豊平川をさかのぼっての調査。道路開削までの経緯
東本願寺はもともと、徳川家の恩顧があり、大政奉還後まもなくである、慶応44年年始に行われた宮中会議に於いて、同寺焼き討ちの案も出された。そのことは濡れ衣や誤解でもあった。東本願寺側は、当時、二十一世門主の大谷光勝(厳如上人)であり、その妻は文字通り皇族出身の嘉家宮和子であった。その実兄でもある山階宮晃親王は、その宮中会議の経過を耳に入れ、実妹のいる同寺のお取り潰しの実現を懸念し、「叛意がない」旨の誓書を朝廷に提出させることにより事なきを得たという。作業の前段階
その主旨は
の三点項目であった。作業開始
その検分した場所はまさに「山鼻」で、現在の南7条西8丁目にあたり、現在、「東本願寺」の「真宗大谷派札幌別院」が建っている場所である。なお、時の政府から下賜されたその地に管刹(寺)が設立されたのは、検分後まもなくで、そこが「札幌別院」と改称されたのは、明治9年のことである。
かくして(他の3つの路線を含め)道路開削が開始されることとなった。本願寺道路の内容
「本願寺道路」のコース
(前項目との重複有り。現在の地図を元に確認したため、他の項も含めて、詳しい方や研究者の加筆修正のご意見も、できればお願い致します。)開通後の歴史
冬の厳しい寒さや、春から秋にかけての蜂や毒虫の害、蝮や狼との戦い、羆(ひぐま)との遭遇などのアクシデントにもめげず、明治4年10月工事完了。突貫工事ながらも、当時は徒歩が主だった時代に、「馬も通行可能」という道路は画期的だった。また、以前は、「獣道」に毛の生えた程度だった、札幌-定山渓の間も、しっかりとした道がつけられることとなった。札幌に近すぎたために宿泊場としては用いられず、どちらかというと、休憩所扱いであった、(旧)簾舞通行屋も、現在の簾舞中学校付近の国道230号線上に建てられたという。関係する記念碑、史跡等
特記
関連項目