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2 夏の帝の一覧 3 関連項目 |
『史記』の夏本紀に拠れば、夏は以下のような歴史をたどった。
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水を為すなどの功績を為し、大いに認められた。また、禹の人柄を愛する人も多かったので、舜は禹を自分の後継者にしようとした。禹は、舜の死後、3年の喪に服した後に、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めず彼の元に行かなかったため、禹が帝位に就いた。陽城に都したと言われている。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、まもなく彼が死んだので、かわって益に政治の補佐をさせた。
禹の死後、本来後継者は益であったのだが、益が政治を執るのにまだ慣れていなかったこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲であるという。
啓の死後、子の太康が後を継いだが、史記によれば、「国を失った」といい、彼の五人の弟たちは「五子之歌」をつくった。
太康の死後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が、淫楽にふけっていたので、胤(胤は名前とも、国の名前ともいう)に命じて、羲氏と和氏を討たせた。
『史記』には中康の後の帝達は特に事跡が伝えられていない。
中康の十一代後の孔甲は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好んだ。そのため、諸侯の心は夏王朝から離れていった。このころになると、夏の徳も衰えてきたのである。
桀は、人徳がなく、武力で諸侯や民衆を押さえつけ、諸侯や民衆に憎まれた。商の湯を呼びつけ、夏台にて牢獄につなげた。湯はゆるされて解放されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついには桀を倒す。桀は、鳴条に逃げたが、そこで死んだ。
商の湯王は、夏の血を引く者を夏亭(史記正義によるとこの地)に封じた。周代においては、杞において諸侯に封じられている。夏の歴史
禹の創業
最初の世襲王朝
帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかったために、これを討った。
この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らないことを弟達が恨んだ歌である。このことから、おそらく、太康が遊楽にふけり民の為に働くことをしなかったので、国を追い出されたのだと解釈されている(孔安国の説による)。夏の衰退と滅亡
夏のその後