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唐(とう 618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに政治体制・文化等の面で多大な影響を与えた。
唐の治世は非常に長いため、唐の中でも更に初唐、盛唐、中唐、晩唐の四つの時代区分に分ける。
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2 政治・経済 3 文化 4 唐の皇帝と元号 5 関連項目 |
歴史
初唐
煬帝の圧制により各地に反乱がおき、隋は大混乱に陥った。鮮卑系北魏の軍閥出身で隋の太原留守(総督)であった李淵が挙兵し大興城(長安)を陥落させ、618年(隋義寧二年、唐武徳元年)に煬帝が死に、煬帝の孫である恭帝侑から禅譲を受け唐を建国した。この時点で各地に群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼして行く。
李世民は太子の李建成を殺し(玄武門の変)、二代目太宗皇帝となる。太宗は当時の大敵突厥を下し、周辺の異民族よりは天可汗の称号を贈られた。可汗はハーンであり、中国では皇帝の意味であり、つまり天可汗は世界の皇帝の意味である。中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは唐帝国の遊牧民的世界性を如実に示しているといえよう。太宗の政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞觀政要』として記され、日本や韓国にまで帝王学の教科書として多く読まれた。この時期に唐の基礎が出来上がった。
太宗の治世の後、三代高宗の皇后であった則天武后とその一族の武氏による専横が始まる。実権を握った則天武后は実子の傀儡天子を相次いで退位させた後帝位に就き、690年(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
則天武后は人材を養成し、優れた政治を行った。また高宗の時代に武后の主導で隋以来の敵であった高句麗を滅ぼした。則天武后が老いて床にある事が多くなると指導力が衰え、705年(神竜元年)、宰相張柬之に退位を迫られ、則天武后に退位させられた中宗が再び帝位につき、周は消滅した。
中宗の皇后韋后は第二の則天武后になろうとし中宗を毒殺した。その後、即位した殤帝を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、李隆基と則天武后の娘太平公主のクーデターにより韋后の一族は皆殺しにされる。武后により退位させられた睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による主導権争いが起こる。
盛唐
712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となる。翌年太平公主を殺し権力を掌握した。玄宗の治世の前半は開元の治と賞され、唐の絶頂期を演出した。しかし後半は楊貴妃を溺愛し、宰相李林甫の専横を許す。
この頃に節度使の制度を作る。州の将軍に小国家の王に等しい権限を与えるこの制度は唐のみならず後の五代十国時代まで戦乱の原因となった。その中でも玄宗と楊貴妃に信頼された安禄山は三州の節度使を兼ね、大きな兵力を握っていた。安禄山は反乱を起こし、自らを燕皇帝とした。この反乱は九年に及び、安禄山が死んだ後、部下の史思明に引き継がれたため安史の乱と呼ばれる。これより唐は唐は斜陽の帝国となる。
中唐
安史の乱により疲弊した唐には西域を保持する事が難しくなり、次第に唐は世界帝国の力を失っていく。この頃になると宦官の力が非常に強くなり、皇帝に対し強い影響力を行使した。中興の祖と言われる憲宗は禁軍(皇帝直轄軍)を強化する事で中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝廷の威厳を回復させた。その後、宦官の力も削ごうとするがこちらは失敗し殺された。憲宗の孫の文宗は宦官を討殺しようと策略を練ったがこれに失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動くロボットになった。
政治の乱れによる国力の低下は地方での圧制につながり、各地で反乱が起きた。874年ごろから黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を斉として皇帝となった。しかし黄巣軍は多く貧民の出なので政治を行う事が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後朱全忠と名乗る。
907年(天佑五年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受け後梁を開き、唐は滅亡する。唐の滅亡後の中国は五代十国時代に入る。
この他に唐が隋から受け取った遺産として南北の大運河が上げられる。長い南北分裂の時代から統一の時代を迎えるためにはこの運河は不可欠であった。煬帝はこの運河を作るために莫大な費用と人力を注ぎ込んだが、唐はそれをまったく無償で手に入れることが出来たのである。
「文は秦漢。詩は盛唐。」と言われるように唐代は漢詩が栄え、この時代に漢詩の形式のほとんどが決まった。「唐詩選」の影響もあり、日本では漢詩と言えば唐と思われるようになった。
晩唐
文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、牛僧孺と李徳裕の政権争いが激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。政治・経済
唐の律令制度は多くが日本にも輸入された。租庸調制、府兵制、均田制、三省六部などは貞観期に完成されたと言われているが、その基本は煬帝が作ったものである。文化
首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。今でもイスラム教徒が多く住み、大清寺と言ったモスクも観られる。開封や杭州が東の海の道を向いた首都であるなら、長安は西のオアシスルートを向いた首都である。主な詩人
王維、杜甫、李白、白居易、孟浩然