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秦に対する反乱が全国に広がり、秦政府の力では対処出来なくなっている最中、丞相趙高のクーデターにより、二世皇帝(胡亥)が自殺させられると、混乱する人心の安定を図る趙高により人望の厚い子嬰が秦王として擁立されることとなった。
注:史記の記述によれば、趙高は、秦に対する反乱が激化する原因は、秦の君主が皇帝を名乗っているからだとして、皇帝の称号を廃し、王の称号を復活させたとある。しかし、近年の研究によれば、これは、前漢の記録官が劉邦の権威を高めるために歴史事実を書き換えたものであって、実際には皇帝を名乗っていたのではないかとの指摘が為されている。
しかし、この直前に、趙高が、当時、咸陽の近くにまで攻め入っていた反乱軍の将軍・劉邦に内応して、王となろうとしているとの噂が広まり、危険を感じた子嬰は、趙高とその一党の粛清を決意。即位式当日に、急病と称して欠席して趙高を誘き出してその一党とともに殺害した。
これによって、秦国内は一時的に安定したものの、時すでに遅く、劉邦の率いる反乱軍はもう咸陽の目の前に迫っていた。ことが決したことを悟った子嬰は劉邦に降伏。その一族ともども身の安全を保証された。しかし、劉邦に続いて、項羽が咸陽に入ると、かつて始皇帝が諸国を滅ぼした罪等を持ち出され、一族ともども処刑された。