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匈奴

zh-cn:匈奴

匈奴 (きょうど 紀元前3世紀ごろ - 400年ごろ)は中国の北方に存在した民族。度々中国の領域内に攻め入り、を苦しめた。

匈奴が初めて中国の史書に姿を現すのが戦国時代の終わり、紀元前3世紀の半ばごろ、の北に現れ、趙と交戦したと書かれている。それ以前に趙の北には三胡と呼ばれる異民族がいて、度々趙と戦っていたが、匈奴とこれらの民族が関係あるのかは解っていない。

始皇帝は蒙恬将軍に匈奴を攻めさせ北へ追い返したが、始皇帝の死後、陳勝呉広の乱が起きると秦は匈奴を抑える力が無く、再び長城付近までやってきた。

この頃の匈奴の単于は英傑冒頓単于である。冒頓は建国直後の前漢の遠征軍に大勝し、匈奴の権威を漢に認めさせた。

その後、景の治の時代には漢は匈奴に対して低姿勢で臨んでいたが、武帝が帝位につくと、積極的に匈奴を討つ為に動き出した。張騫を西域に出し、月氏と結んで匈奴を討たんとした。それは失敗に終わったがこれにより長城以北の状況が詳しく解り、武帝は匈奴を討つ為の作戦を立てる。武帝は匈奴を誘い出すために北の都市馬邑で偽りの反乱を起こさせ、匈奴に内通する手紙を冒頓の孫軍臣単于に出した。しかし軍臣は途中で気づき、武帝の策略は失敗に終わった。

この武帝の屈辱は衛青と霍去病と言う二人の卓越した将軍によって雪がれる。二人とも度々匈奴を討ち、大戦果をあげた。この時期、匈奴には内紛がおき、国力が充実した漢に敵し得ず北へ帰った。

宣帝の時代に後継争いで内紛が激しくなり、呼韓邪単于は内部を治めるために漢に入朝し、自ら臣と名乗った。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。

前漢が滅び、新を挟んで後漢が成立すると、日逐王は漢の力を借りて今の単于を倒し、自らが単于になろうと漢に近づき、匈奴は二つに分裂した。これ以降、親漢派は南匈奴と呼ばれ、もう一方は北匈奴と呼ばれる。漢は遠征軍を出し、班超の活躍で西域を平定した。

その後、南匈奴は漢に属し、北匈奴は南匈奴と鮮卑族に圧迫されて、西に流れていった。この流れていった北匈奴が後にフン族になったのではないかと言われている。黄巾の乱後、長安から逃げ出した献帝を南匈奴の於扶羅が救った。

後漢が倒れ、魏が倒れ、西晋が建った後に八王の乱で中国が大混乱した状況を見て曹豹の孫である劉渕は自ら皇帝を名乗り前趙を建てた(304年)。五胡十六国時代の幕開けである。329年、前趙は石勒の後趙に滅ぼされる。

401年、匈奴の沮渠蒙遜は北涼を建てる。439年、この北涼は北魏に滅ぼされ、生き残ったものは西の高昌(トルファン)まで逃れここで新しい国を作るが、460年、モンゴル系の柔然に攻められて滅亡する。

407年、劉渕の一族であった赫連勃勃は後秦から独立し夏を立てた。この国は431年、北魏に攻められて滅亡する。





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