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永禄九年(1566年)、朝廷の許可を得て、家康個人が「徳川」に改姓し、従五位下三河守に叙任された。ここで重要なのは、松平氏が改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである。「徳川」姓は、松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。公認される限り十一人いた家康の男子で徳川姓を許されたのは、三男で世子の秀忠、および御三家の祖となる九男義直・十男頼宣・十一男頼房の4名にすぎない。
徳川氏の系譜は、系図上は清和源氏の新田氏の支流得川氏の末裔と位置付けられており、従って本姓は源朝臣である。一説には、当初朝廷の許可では徳川氏は源姓ではなく藤原姓の氏族として認められていたが、家康が江戸幕府を開くに当たって、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があったために、系図の粉飾が行われたのだとも言う。ただ、家康の祖父松平清康の代には既に松平氏は得川氏の同族世良田氏の末裔であると主張しており、家康一代の創作であるとは言い切れない。
徳川家康個人の男系子孫たる徳川氏諸家は、松平の名乗りのみを認められた家康子孫の諸松平家(越前松平家・会津松平家等)とともに親藩を構成し、江戸時代260余年にわたって日本の支配層として君臨した。明治維新の後も、徳川氏は武家の最上流として華族に遇せられ、宗家は公爵、御三家は侯爵、御三卿は伯爵に列せられ、また十五代将軍だった徳川慶喜は宗家から別家して徳川慶喜家を創設し、同じく公爵を授けられて伝統的な地位を保った。現在、徳川家康の子孫で徳川を姓とする家は次の8家とその別家である。
現在の子孫は、徳川・松平一門の会に所属し、その会員数は約600名である。他方、次の家は絶家した。