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1869年、蝦夷共和国を設立したものの、前年からの度重なる戦争に疲弊を重ねていた旧幕府軍は、戦力的な打開を図ることがまず第一と考えるようになっていた。
そんな折、3月半ばに新政府軍の軍艦4隻(甲鉄、春日、丁卯、陽春)と軍用船4隻(戊辰丸、晨風丸、飛竜丸、豊安丸)の船団は、宮古村に入港するという。
旧幕府軍はいよいよ危機感を強めたが、榎本武揚はここで逆転策を考え、宮古港に停泊中の新政府軍船に奇襲をかけ、旗艦である新鋭艦の「甲鉄」(アメリカ製で当時日本唯一の装甲軍艦であった)他を奪取し、新政府軍の海上戦力を壊滅においやろうとした。
作戦自体は至極簡単な「だまし討ち」で、宮古港に入港する際には回天、高雄、蟠龍の三隻はそれぞれ外国旗を掲げ、突撃寸前に日章旗に旗を改める、というものであった。
そして、3月20日夜に函館を出港、同月25日早朝に宮古港付近に到着した旧幕府艦隊は、荒井郁之助を総司令官とし、「回天」「蟠龍」「高雄」の3隻をもって突撃(実際は嵐のため蟠龍の到着が遅れ、さらに高雄が機関損傷により航行不能で、参加したのは結局回天のみ)を敢行、新政府軍船(甲鉄)に接舷し、一気に白兵戦で決着をつけるかに見えたものの、1分に180発もの弾丸をばら撒く速射砲などの強力な武装で固めた新政府軍の前に敗北、蝦夷に向けて逃走した。
直ちに新政府軍は追撃を開始、回天、蟠龍は26日夕方に函館まで退却ができたものの、高雄は補足され九戸にて上陸、船を焼いた後盛岡藩に投降した。
現在、宮古市には新政府軍の一兵卒として従軍した、若き日の「東郷平八郎」の残したこの海戦に関するメモが石碑となっており、訪れる観光客も多い。