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この世界の多様な現象を把握するために、我々は一定の条件を満たした現象群を統合して存在(そんざい、existence)と呼ぶ。一般的にはその現象群が物理的因果関係を持つとき、その現象群は存在する、と認識される。例えば木の塊に力を加えて動いたとき、我々はその塊を「椅子」として認識する。
またそのような物理的存在を過去や未来、或いは別世界に移動して想像するときにも、その物は存在する、と考えられる場合もある。たとえば椅子を動かしたという記憶があるとき、我々はその椅子がかつて存在していた、と考える。また多世界論理では様々な世界にそれぞれ椅子が存在し、(椅子に腰掛けるとき)我々の意思がそのうちの一つを選択するという形而上学を展開する。
これらの存在感覚の底辺を成していると思われるのは「リアリティ」だが、その物理的にはコンタクトできなくても、リアリティだけが突出する「存在」もある。その好例は神である。
このようにしてみると、存在というのは人間の素朴な物理感覚とリアリティ感覚から出発して、様々な形態に発展・分化したものと考えることができ、その広がりと原始性が定義の難しさの遠因となっていることが理解されよう。
科学と存在
科学的な物の考え方によれば、現実世界は、感覚的に受け取れる物事から構成されている。地球から遥かに遠い星々も、肉眼か、でなければ望遠鏡などを使って観測することができ、それゆえに「あの星は存在している」といえる。細菌など微視的な事物についても同様である。
一般に自然科学は存在する物事についての理論的説明であり、理論によって予測された通りの振る舞いが、実験や観測によって確認できるかどうかを頼りに考察を積み重ねていく営みである。そこで、予測不可能なもの、観測不可能なもの、などについては、科学的には存在しているともしていないともいう事ができない。
このように観測や実験を通じて確認できる存在は、しばしば科学的存在と呼ばれ、神や超常現象、死後の世界などのように確認することができない物事と区別される。また、多くの観察や実験結果と一致するような既存の科学の理論と大きく矛盾をきたす物事は、その存在が疑わしく、科学的存在とは考えられない。
存在についての諸理解
感覚が必ずしも頼りにならないことは、錯覚や幻覚、夢などを通じて多くの人が感じ取っている。また、人によっては、時間や空間のどこかに「果て」のようなものがあるとしたらその「向こう」には何が在るのか、あるいはただ無が存在しているのか、無が存在できるのか、といった素朴ながら答えがたい疑問を持つこともある。あるいは、自分が経験している物事全てが実は夢なのではないか、自分はいつかそこから目覚めて、まったく違う世界にいるのではないか、という可能性も、文学や漫画などでしばしば採り上げられる。そうした考えを突き詰めると、自分が普段接している物事が本当に存在しているのか、自分が普段は存在していないと考える物事(架空の物事、信仰の対象となっているが信じていない人々には感じ取れない物事、など)は本当に存在していないのか、といった迷いを持つこともある。
さまざまな宗教の中には特殊な体験(神の顕現や悟りなど)を通じて通常の感覚では捉えられない物事に遭遇する場合もある。それに基づいて、日常感覚や一般に「科学的」といわれるような存在や現実世界についての理解が誤っているとされることも少なくない。
哲学においては、古代ギリシャのプラトンやアリストテレス以来、存在をどう捉えるかについてさまざまな考え方が提出されてきた。近代の哲学者の間でも、「物自体」は決して知ることができず、それゆえ、ある物が「在る」かどうかについては断言はできないのではないかという疑問は繰り返し提起されてきており、第一級の思想家と見られている人々の間でも意見の一致を見ていない。
一部の理論物理学では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、われわれの現実世界以外の平行宇宙や虚時間における物理過程などに言及することがある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。
また、コペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがあるわけではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在するわけではない。観測行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される。(シュレーディンガーの猫、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス、ベルの定理も参照のこと)