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土方歳三

土方 歳三ひじかた としぞう、天保6年五月五日 - 明治2年五月十一日、1835年5月31日 - 1869年6月20日)は、新撰組副長。 名は義豊。幕末動乱のなかで武士となる。

Table of contents
1 幼少期など
2 歳三の実像
3 京都以後
4 歳三の残した句
5 関連項目
6 外部リンク

幼少期など

武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の「御大尽(おだいじん)」と言われた豪農、土方義諄の四男として生まれる。生まれる前に父を失い、6歳の時に母も失って、兄の喜六夫妻に育てられる。 11歳の時で江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現在の松坂屋上野店)へ奉公に出ていた。しかしすぐに番頭と喧嘩をし、日野に戻ってきてしまう。

17歳の時には江戸の伝馬町の呉服屋に奉公に出されるも、その店の奉公人の女性と恋仲になり、やがて妊娠させてしまう。この処置に困った歳三はまたも日野に戻ることになる。

その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ各地の道場で他流試合を重ね修業を積む。この修行中、日野に出稽古に来ていた天然理心流4代目の近藤勇と出会い、弟子入りを果たす。歳三の姉、のぶは日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり彦五郎は歳三の義兄にあたる。彦五郎邸には天然理心流の道場があり歳三は、よく入り浸っていたようだ。 彦五郎は近藤と義兄弟の契りを結んでおり、天然理心流を支援した人でもある。

歳三の実像

陣中法度、局中法度などの厳しい隊規を考案したとされ、裏切り者やはみ出し者に容赦の無い刃を浴びせた歳三は、普段は冷酷な人物とされる。反面、和歌俳句などを嗜むなど意外と風流人の面もあった。「豊玉発句集」などを自分で書して残すほど書き溜めていた。

また、歳三はかなりの女好きでまた非常にもてたという。もともと色白で引き締まった顔立ちであった為、身近な女性を片っ端から口説き落とし、成功させている。京都にて新撰組副長として活動していたときなどは、日野の仲間に向けて多数の女性からの恋文をまとめて送って自慢するほどであった。

京都以後

試衛館の仲間と清河八郎以下浪士組に合流した歳三たちは京都に向かう。 内紛の中で権力をにぎった近藤を局長とする新撰組を発足させ、その後は局長近藤勇の右腕として、京都治安警護維持にあたった。新選組をより強力な組織へと創り上げたのは歳三の力による所が大きい。 物事を冷静に判断し、迅速な行動力に優れていた。

池田屋事件のさいは、長州土佐藩士が頻繁に出入りしていた丹虎(四国屋)に向かったがここは、 誰もいなかった。すぐさま池田屋の応援に駆けつけたが、すぐに刀を抜いて入らず池田屋の周りを固め 後から駆けつけた会津藩桑名藩の兵を池田屋に入れず、新撰組ただ一隊の手柄を守った。立場がまだ弱い新撰組の事を考えての行動だった。歳三らし冷静な機転である。 そのため、池田屋の恩賞は破格のものであったし、勇名も一気に天下に轟いた。さらに、幕府から近藤を与力上席に、隊士を与力とする内示まであったが、歳三は近藤を諌め与力よりも狙いは大名とし、次の機会を待とうと進言。近藤もこれに従った。

後の洋装の写真などでわかるように、歳三は合理主義者で便利なものは便利と受け取る柔軟さをもっており、 舶来の懐中時計なども持っていたという。

慶応三年六月 ついに、幕臣旗本に取り立てられる。 しかし、その五ヵ月後大政奉還、十二月に王政復古の大号令。時代は倒幕へと動き出した。

慶応四年一月三日 鳥羽伏見の戦い。弱腰の幕府軍にあって新撰組を率いて勇猛に戦った。しかし、新政府軍の砲戦の前に刀剣は無力であり、敗退する。

歳三は鳥羽伏見の戦い後、刀で戦ができない時代だと悟り洋式の軍備をすすめる。

幕府軍の江戸撤退の後も、甲斐国で新政府軍を食い止めんとするが敗退。 その後、近藤勇は新政府軍に拿捕され処刑されたため、以後の新撰組は土方が率いることとなる。 近藤が捕らえられた時、歳三は江戸へ向かい勝海舟に直談判し近藤を助けるように要請したが、実現しなかった。

戊辰戦争では、常に前線で奮闘したが、奥羽列藩同盟が崩壊し新政府軍に屈服した後は、戦う地があればどこまでも戦うと決意。幕臣として死のうと、旧幕府海軍に合流し蝦夷地に渡る。

劣勢の幕軍の中、歳三はいくつも勝ち戦を重ねている。軍師として才覚があったといわれている。

蝦夷地にて、榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国五稜郭が本陣)がつくられ、土方は陸軍総裁並(次官扱い)となる。しかし蝦夷共和国も主要軍艦を失ったことを契機に新政府軍に倒され、土方は1869年5月11日(旧暦)、箱館一本木関門で戦死した。享年三十五歳。

いよいよ、新政府軍迫るにつれて五稜郭でも恭順を主張するものが出てきたが、「ここで降伏したら地下にいる 近藤に合わせる顔がない」と言い、最後まで歳三は奮戦した。

歳三の遺髪と辞世の句が、小姓の市村鉄之助の手によって日野宿の佐藤彦五郎に届けられている。

愛刀は和泉守兼定。

歳三の残した句

  • 公用に出て行く道や春の月
  • 三日月の水の底照る春の雨

関連項目

外部リンク





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