|
|
イラクは、正式名称はイラク共和国 (Jumhūrīya al-'Irāq) で、中東・西アジアの国である。首都はバグダード(バグダッド)。サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で2番目の原油産出国である。
| |||||
| 国の標語: الله أكبر (アッラーは偉大なり) | |||||
![]() | |||||
| 公用語 | アラビア語 | ||||
| 首都 | バグダード | ||||
| 面積 - 総計 - 水面積率 | 世界第57位 437,072km² 1.1% | ||||
| 人口 - 総計(2002年) - 人口密度 | 世界第44位 24,001,816人 55人/km² | ||||
| 通貨 | イラク・ディナール | ||||
| 時間帯 | UTC +3 | ||||
| 独立 | 1932年10月3日 | ||||
| 国歌 | 二つの川の流れる祖国 | ||||
| ccTLD | .IQ | ||||
| 国番号 | 964 | ||||
| Table of contents |
|
2 政治 3 (地域区分) 4 地理 5 経済 6 人口統計 7 文化 8 関連項目 9 外部リンク 10 参考文献 |
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はチグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。
西暦634年、ハーリド・イブン=ワリード の指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国(サーサーン朝)軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、ビザンティン帝国への絶え間ない出征のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードにイスラム帝国の都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心であった。
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、ムスリムによってイラクと呼ばれるようになっていたこの地域は政治的には周縁化し、イラン高原を支配する王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。
19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルを州都とする3つの州として統治していた。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーブル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させた。イラクは、1932年に大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王として独立を達成する。
なお一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のアミール(首長)のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、大戦以前の1899年に既にイギリスの保護国となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、1961年に別の国として独立する。この経緯が、1990年のイラクのクウェート侵攻の理由となる。
イラク王国はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始めた。王国は1958年にクーデターによって倒され、共和制となる。その後、政変が繰り返される中でバアス党が権力を握り、1968年にアフマド・ハサン・アル=バクル、続いて1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任した。
イラクと中東諸国との関係は多様である。
1990年に入ってイラクは、80年から88年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。
エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。
しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクはエジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだと度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。
イラクとエジプトの関係は更に、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。
シリアとの関係は、アラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。
ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。
イラクは中東戦争に際しては1948年、1967年、1973年に参戦し、イスラエル問題については強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のレーガン米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルによって爆撃したこともあった。歴史
政治
外交
![]() |
国土はトルコとイランの国境にある海抜3000メートルの山岳地帯からゆるやかな下り坂になっており、最終的には南東にある葦のはえた沼地に向かっている。国土のほとんどは砂漠か荒れ地である。北東部にある山々は山脈の一部で、これはバルカン半島から東にひろがり、トルコ南部、イラク北部、イランおよびアフガニスタンを経由してヒマラヤ山脈で終わっている。
平均気温は、7月には摂氏48度以上まで上がり、1月には氷点下近くまで下がる。雨期はおもに12月から4月にかけてである。年間の平均降水量はおよそ100から180ミリ程度。北部の山岳地帯では中部および南部の砂漠地帯よりも明らかに降水が多い。
日本の自衛隊が駐留するサマーワは、ユーフラテス川流域で、地図上のナーシリーヤとナジャフの間にある。
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。古くから外貨の95%がこの原油の交易によってもたらされていた。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油産出施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの構築や破壊された施設の復帰などにより原油の輸出は徐々に回復した。
1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。
1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出はまだイラン・イラク戦争前よりも低い。経済
| 日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
|---|---|---|---|
関連項目
外部リンク
参考文献
このページはウィキプロジェクト 国のテンプレートを使用しています。