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| Table of contents |
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2 前哨戦(2月21~28日) 3 奉天包囲作戦(3月1日~5日) 4 ロシア軍の後退戦術(3月6日~8日) 5 会戦の結末 6 奉天会戦の影響と日露休戦への道 7 関連項目 |
緒戦において危うい勝利を拾い続け、戦争全般では何とか優勢を保ってきた日本軍ではあったが、シベリア鉄道を擁する大国ロシアに対し、小国の持てる力の限界を超えて補給を続けなくてはならなかったため、進撃を続けるにつれ、兵站・兵力の不足の度は強まり、旅順攻囲戦の消耗をしのいだ後は、もはや戦争継続も危うい状況に陥っていた。
2月21日、ロシア側は当初、日本側左翼(第二軍)に対する攻勢を企図していたが、それに僅かに先んじて最右翼の鴨緑江軍(朝鮮軍揮下)が進軍を開始し、ロシア軍が防戦するまもなく、防御線を突破、攻勢のタイミングを失ったロシア軍は、後退して守勢に回った。
戦いの主導権を握った日本軍は3月1日を期して奉天包囲攻撃を開始、正面・右翼で激しい戦闘が繰り広げられると同時に、それを陽動として、急転直下左翼に浮上してきた乃木希典の第三軍によって、敵後方への迂回作戦が敢行された。
しかし、3月6日になってロシア軍は奉天前面から徐々に後退を始めた。このため第三軍は敵軍側面というよりむしろ前面に対処する体勢になり、苦戦を強いられるようになる。他の前線でもロシア軍が随時猛反撃を加えてきたため前線を突破する事はできず、徐々に損害が増えていった。
3月9日、戦場に黄砂が飛来した。
奉天会戦勝利の報に日本国中は沸き返り、更なる戦争継続の声が上がっていた。実情を知らない内地の大本営はウラジオストクへの進軍による沿海州の占領を計画し始めていた。
勝利に目を曇らすことなく講和への道を開いた児玉源太郎は、翌年7月、日露戦争に気力の全てを注ぎ込んだかのように脳卒中でこの世を去った。奉天会戦概要
大山巌総司令、児玉源太郎総参謀長ら満州軍首脳は、趨勢有利のうちに講和によって戦争を終結させる事を目標として、奉天にこもるロシア軍に対して総力戦を挑んだ。前哨戦(2月21~28日)
奉天包囲作戦(3月1日~5日)
クロパトキンを主将とするロシア軍は、難攻不落と触れ込まれていた旅順要塞を陥落させた第三軍の能力を過大評価しており、もし、第三軍が奉天後方に回り込み、哈爾浜=奉天間の鉄道遮断に成功したら、ロシア軍に対する物理的・精神的打撃は決定的であった。ロシア軍の後退戦術(3月6日~8日)
あくまで総力戦を期す日本軍は総じて攻勢を保ってはいたが、その実、ロシアの後退戦術に引きずられて前進しているという状況であり、将兵の体力は限界に達し、兵站は不足し、前線の各所で銃を捨てて逃走する兵士の姿が見られた。この時点でロシア軍が一斉反撃に転じたら、満州軍全軍は崩壊するという危機的展開であった。会戦の結末
クロパトキンは日露戦争において弱気な司令官であったとの風評が強いが、この時も甚大な被害を出しながら前線で攻勢を続ける日本軍を見て相当の予備兵力と補給のあてがあるのだと誤解していた。彼は有力な敵軍を相手に鉄道線という補給の急所を抱えたまま奉天での戦いを続ける気はなかった。
ロシア軍は10メートル先をも覆い隠す黄色い風によって膠着した戦況を利用して総撤退を開始。3月10日、疲弊しきった日本軍は、追撃を行う余力もなく無人の奉天に入城した。
奉天会戦の勝利は奉天を制圧したという一事で日本軍に帰したが、死傷者日本側7万、ロシア側6万では、残余の兵力と両軍の地勢を考慮して事後の戦略を練る上では決して勝利とは言えない結末だった。
ロシア軍司令部は勝ったと思っていたし、日本軍司令部は負けたとは思っていなかったが、当初の決戦の意図が果たせなかったことにおいては重大な失敗を犯かしてしまったと考えていた。奉天会戦の影響と日露休戦への道
これを知った児玉参謀総長は慌てて戦地から東京へ戻り戦争終結の方法を探るよう具申した。陸軍首脳はあくまで戦争拡大を主張して渋ったが、海軍大臣山本権兵衛が児玉の意見に賛成し、ようやく日露講和の準備が始められる事となった。
5月、日本海海戦の結果、海上でも日本軍の優勢が確定し、ロシアはついに交渉の席に着き、9月、休戦協定が成立。10月、ポーツマス条約により終戦を迎えた。