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日本における南北朝時代とは、1336年、光明天皇の践祚・後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから1392年に両朝が合体するまでの期間を言う。室町時代の初期に当たる。
1333年、大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政を行う。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒すのに功のあった武士を軽視し、何の功もなかった公卿を重く用いた。また、大覚寺統と持明院統がたすきがけで皇位につく(両統迭立)、という従来からの約束を破ろうとした。不満を抱えた武士たちは、後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏を支持し、後醍醐天皇は吉野へ逃れた(南朝)。一方、足利尊氏は持明院統を擁立し、北朝を建てた。
当初、南朝方は楠木正成や新田義貞、名和長年らの活躍により、幕府軍と互角に戦った。しかし、楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕(三木一草)のほか新田義貞・北畠顕家らが次々と戦死。1348年には吉野行宮が陥落し、壊滅的な打撃を受けた。その後、山名時氏らの反乱や観応の擾乱などによる幕府軍の内紛に南朝が乗じて、京都争奪戦が繰り広げられた。1367年以降は、幕府の体制も確立して、南朝方の大規模な反撃は影を潜めた。
1392年、足利義満の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立を条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した。しかし、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続いた。これを後南朝という。
なお、戦前は南朝が正統であるという立場から、南朝が吉野にあったことにちなみ、「吉野朝時代」と呼ばれた。