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26歳でロシア皇帝に即位し、近代化に悩むロシアに君臨することになる。同じ年にドイツのヘッセン・ダルムシュタット侯の娘でイギリスのビクトリア女王の孫娘でもあるアレクサンドラと結婚した。
ニコライ2世は初め父の政策を受け継いで蔵相ウィッテを重用したがのちにこれを退けた。先祖伝来の積極外交政策を継承して、満州の権益獲得や遼東半島の租借などによって極東への進出を確実に押し進めていたが、同じころ朝鮮半島に勢力を及ぼし始めた日本と利害が対立するようになり、1904年に両国の間に日露戦争が勃発した。
莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が1905年1月に血の日曜日事件を起こすと、ニコライ2世はウィッテを再登用して戦争の早期終結に当たらせた。さらに10月、ゼネストが発生すると皇帝の専制権が残存する憲法を発布して国会(ドゥーマ)開設を国民に約束した。国会が開催され初代首相にストルイピンが登用されたが、後にニコライ2世はこれと対立すると見限って罷免した。
同じころ、皇帝夫婦は当時不治の病であった血友病患者皇太子アレクセイの将来の身を案じていた。あるときラスプーチンという祈祷僧が宮廷に呼ばれた。ラスプーチンが祈祷を施すと皇太子アレクセイの病状が好転したのである。このことからアレクサンドラ皇后が熱烈にラスプーチンを信用するようになり、愛妻家であった皇帝も皇后に同調した。その後もラスプーチンは度々宮殿に呼び寄せられ皇太子の命を救った。皇帝一家がラスプーチンを「我らの友」と呼び絶大な信頼を寄せたことから、ラスプーチンもいつしか政治にまで口を挟むようになっていた。
1914年6月に第1次世界大戦が勃発するとロシアは連合国に参加してドイツと戦いを開始した。近代兵器を擁するドイツに大敗を喫したことから、ニコライ2世は司令官ニコライ・ニコラエビチ大公を罷免し自ら前線に出て指揮を執った。皇帝不在の都ペテログラードではニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導する。人気のなかった二人に対して、貴族から民衆までが”ドイツ女””怪物”と蔑んで憎悪の対象とした。
1916年12月ラスプーチンが暗殺され、1917年1月に改善しない戦況に苦しむ民衆が蜂起する。軍隊の一部も反乱に合流してロシアは完全に混乱に陥った。 ケレンスキーが指導する二月革命が発生し、1917年3月2日、ニコライ2世は プスコフで退位させられ、8月に皇后や5人の子どもとともにシベリアのトボリスクに流された。さらにボルシェビキによる十月革命が発生しケレンスキー政権が倒されると、エカチェリンブルグへ移されモスクワの命令によって1818年7月16日に皇帝一家は全員銃殺された。(→ロシア革命)
| 前の皇帝: アレクサンドル3世 |
断絶: |