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羨道や玄室
古墳の内部構造は、まず羨道(せんどう)がある。羨道は玄室への通路のことである。羨道を少し入ったところに扉石がある。石室に入るには扉石(とびらいし)を開かねばならない。この扉石は壮大なものが多い。石室には、玄室と羨道がある。羨道から玄室への入口にまた扉が着いている。この扉は観音開きで、金銅製で蓮の花などの飾り金具が施してあることが多い。石室を上から平面的に見ると両袖式と片袖式のものがある。羨道が石室の中央につけられているものが両袖式で、羨道が石室の左右のどちらかに寄せて付けられているものが片袖式と呼ばれている。さていよいよ玄室内に安置してある棺であるが、木棺・乾漆棺緘・金属棺・石棺など様々である。この棺の中に色々な副葬品が入っている。また、棺は一つとは限らない。
畿内を中心に分布
近畿地方を中心として日本全国に広く分布し、大型の前方後円墳の周りには小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳がよりそうように存在し古墳群を成している箇所も多い。航空写真で見るとその様子は非常に目を引く。古墳時代に築かれた巨大な墳墓は、その多くがこの前方後円墳であり、伝仁徳天皇陵はその最大のものであるが、同時に世界最大の墳墓とする意見もある。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らす。
前方後円墳の、この特異な形状は基本的に日本国内にしか見られないことから、大陸の影響を受けながらも国内で独自に発展してきたものと考えられている。古墳時代の初めから前方後円墳とともに、前方後方墳・円墳・方墳の四つの形の古墳が併存していた。
前方後円墳の形状
前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容された。てるてる坊主や鍵穴(英語では、keyhole-shaped tomb 鍵穴形の墓)を想像すると、方部が「前」で円部が「後」というのは納得できないものがあるが、これは江戸時代の国学者 で寛政の三奇人とも言われた蒲生君平(がもうくんぺい)が定義したことに由来し、以降便宜的に使用されている。この蒲生の説は、前方後円墳が宮車を模倣したものだという考えに基づく。しかし、古墳時代の初期には、車はなかったであろう。蒲生訓平は、江戸時代に荒れ放題になっていた歴代の天皇陵を克明に調査して『山陵志(さんりょうし)』を書いた。どちらが前かという議論は長く行われているが、中には横から見た姿が正しいとする説を唱える学者もいる。これは平民の視点から、最大のサイズで見える方向ということである。
現在の研究では、円部が埋葬のための丘陵であり、前方部はもともと死者を祀る祭壇として発生・発達、次第に独特の形態を成したと考えられる。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。
現存する前方後円墳は、前方部を平地もしくは南側(真南とは限らない)に向けて築造されている。 また天皇陵の多くは、前方部の底面方向から拝礼を受けるような形で参道などが整備されている。
朝鮮半島南部の前方後円墳
全羅南道に12基,慶尚南道に1基の前方後円墳が存在する.在地の古墳群とは離れた地点に位置している.このことから百済に仕えてこの地方を治めた倭人の墳墓ではないかという説がある.
古墳研究において業績を残してくれた外国人に、イギリス人ウィリアム・ゴーランド(William Gowland)がいる。彼は、1872(明治5)年から1888(明治21)年の16年間の滞日中に、本務の余暇をみてはこつこつと古墳研究を進めていた。また、彼は、造幣局の鎔銅担当技師として招聘され、後に局長顧問を兼ねた。
彼の古墳研究のことは当時、日本人の間ではほとんど知られていなかった。ゴーランドの研究
彼が帰国してから『日本のドルメンと古墳』(The Dolmens and Burial Mound in Japan,1897)と『日本のドルメンとその築造者』(The Dolmens of Japan and their Builders,1889)とを発表した。日本の古墳の中でも特に彼を引きつけたのは、巨石を使って構築された横穴式石室であった。彼が調査した横穴式石室は460で、そのうち実測図を作成してデータを計測したのは130である。調査地域は九州から関東の15府県に渡っている。