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この愛(アガペー)について、ウィリアム・バークレー教授は自著「新約聖書の用語」の中でこう述べている。「アガペーは思いと関係している。それは、[フィリア(兄弟愛)の場合とは異なり]おのずと自分の心の中に生じる単なる感情ではない。それは一つの規範であって、我々はその規範に従って慎重に生活する。アガペーは意志と非常に深い関係にある。それは一つの征服であり、勝利であり、達成である。自然に自分の敵を愛せる人はいない。自分の敵を愛することは、我々の自然の傾向と感情全体に対する征服である。実際このアガペー……は、愛せない人を愛し、好きではない人を愛する力である」。
神への清い崇拝を他のすべての形態の崇拝と異ならせている一つの点は、前者がこの種の愛を強調していることである。イエス・キリストが最大のおきてとして次の二つを挙げたのは正しいことであった。「第一は、『……あなたは、心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力をこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。第二はこうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。これらより大きなおきてはほかにありません」。(マルコ 12:29‐31)使徒パウロもコリント第一 13章で、同じように愛を強調している。彼は愛が絶対に必要な第一の特質であることを力説した後、結論として、「しかし今、信仰、希望、愛、これら三つは残ります。しかし、このうち最大のものは愛です」と述べている。(コリント第一 13:13)イエスが、ご自分の追随者を見分けるしるしとなるのは愛であると述べたのは正しいことであった。―ヨハネ 13:35。
愛に含まれない事柄について語るほうが、愛に含まれる事柄について語るよりも容易であると言われる。その指摘はある程度真実である。使徒パウロは愛について述べるコリント第一 13章の4節から8節で、愛に含まれない事柄を九つ、愛に含まれる事柄を七つ挙げているからである。
愛に含まれない事柄としてパウロが最初に述べているのは、愛は「ねたまず」ということです。ねたみには良い面と悪い面があるので、少し説明を加えなければなりません。ある辞書の定義によると、「ねたむ」とは「対抗するものを容認しない」こと、「全き専心を要求する」ことである。そのためモーセは出エジプト記 34章14節で、「あなたはほかの神に平伏してはならない……。エホバは、その名をねたむといい、ねたむ神だからである」と言った。出エジプト記 20章5節でエホバは、「あなたの神であるわたしエホバは全き専心を要求する神であ(る)」と述べておられる。使徒パウロもそれと同じような意味をこめて、「わたしは敬虔なしっとをもってあなた方をしっとしているのです」と書いた。―コリント第二 11:2。
しかし、一般に「ねたみ」には悪い含みがあるため、ガラテア 5章20節では肉の業の一つとして挙げられている。確かに、そのようなねたみは利己的なものであり、憎しみを引き起こす。憎しみは愛の正反対である。カインはねたみに駆られてアベルを憎み、それが高じてアベルを殺した。ヨセフの10人の異母兄弟たちもねたみのためにヨセフを憎み、それが高じてヨセフを無き者にしたいと考えた。愛があれば、ねたみの気持ちからナボテのぶどう園にしっとしたアハブ王のように、他の人の所有物や有利な立場にしっとすることはない。―列王第一 21:1‐19。
パウロは次に、愛は「自慢せず」と述べている。自慢するのは愛が欠けている証拠である。自慢するなら、自分を他の人より高い立場に置くことになるからである。自慢したネブカドネザル王を神がどのように低められたかを調べれば分かるように、エホバは自慢する者たちを不快に思われるのである。(ダニエル 4:30‐35)たいてい自慢話は、自分の成し遂げた事柄や持ち物に有頂天になるあまり、よく考えもせずに行われる。こうしたことは、自慢話をする人がそれを聞く相手の上に自分を高めるものであり、それゆえに愛が欠けているのである。
次に、愛は「思い上がらず」と述べられている。思い上がった人や、ごう慢になる人は愛に欠けており、他の人よりも自分を高める。そのような精神態度は非常に分別のないことである。「神はごう慢な者に敵し、謙遜な者に過分のご親切を施される」からである。(ヤコブ 4:6)愛があれば、全く正反対の方法で行動する。他の人を自分より上であると考えるのである。パウロはフィリピ 2章2節と3節でこう書いた。「あなた方が同じ思いを持ち、同じ愛を抱いているのだという点で、わたしの喜びを満たしてください。また、魂において結び合わされ、一つの考えを思いに抱き、何事も闘争心や自己本位の気持ちからするのではなく、むしろ、他の人が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち(なさい)」。そのような精神態度は他の人たちの気分をよくするが、ごう慢な人は闘争心のために、他の人の気分を害する。
パウロはさらに、愛は「みだりな振る舞いをせず」と述べている。辞書の定義によれば、「みだりな」とは「極めて見苦しい、あるいは礼儀や倫理に反している」ということである。みだりな(愛のない)振る舞いをする人は、他の人の気持ちを無視している。多くの聖書翻訳はこのギリシャ語を「不作法な」と訳している。そのような人は、正しくて上品であるとみなされている事柄をあざける。確かに、他の人たちへの愛ある思いやりがあれば、不作法な、あるいはみだりな事柄、人の気分を害し、場合によってはショックをさえ与える事柄すべてを避けるであろう。
次に、愛は「自分の利を求めず」とある。これは、わたしたちの個人的な関心事と他の人たちの関心事について問題が生じる場合のことである。使徒パウロは別の箇所で、「自分の身を憎んだ者はかつていないからです。むしろ人は、それを養い、また大切にします」と述べている。(エフェソス 5:29)しかし、自分の関心事と他の人の関心事が対立するとしても、聖書中の他の原則が関与していないのであれば、アブラハムがロトに対して行ったように、愛のうちに、他の人の選択を優先させるであろう。―創世記 13:8‐11。
さらに愛は、すぐに怒ることがない。それでパウロは、愛は「刺激されてもいら立ちません」と述べている。愛は過敏ではないのである。愛は自制を働かせる。特に夫婦はこの訓戒を心に留め、いらいらして大きな声を出したり、どなり合ったりしないように注意すべきである。いら立ちやすい状況があるので、パウロはテモテに次のような諭しを与える必要を感じた。「主の奴隷は争う必要はありません。むしろ、すべての人に対して穏やかで、教える資格を備え、苦境のもとでも自分を制し、好意的でない人たちを温和な態度で諭すことが必要です」―テモテ第二 2:24、25。
パウロは愛に含まれない事柄をさらに挙げ、こう諭しています。「愛は……傷つけられてもそれを根に持たず」。これは、愛があれば、自分が傷つけられたことを意に介さないという意味ではない。わたしたちがひどく傷つけられた場合、どのように物事を扱うべきかをイエスは示された。(マタイ 18:15‐17)しかし愛は、いつまでも憤っていたり、恨みを抱いたりすることを許さない。傷つけられても根に持たないということは、聖書的な方法で問題が扱われたなら、快く許し、その問題を忘れるという意味である。そうです、一つの不当な仕打ちについて考え続け、傷つけられたことを根に持って自分を苦しめたり、自分を惨めにしたりしてはならない。
さらに、愛は「不義を歓ばない」と言われている。暴力やポルノを呼び物にした書物、映画、テレビ番組などが人気を博していることから分かるように、人々は不義を歓んでいる。そうした歓びはすべて利己的なものであり、神の義の原則や他の人の福祉を全く気にかけていない。そうした利己的な歓びはすべて肉にまくことであり、やがて肉から腐敗を刈り取ります。―ガラテア 6:8。
では、愛に含まれない最後の点を挙げよう。「愛は決して絶えません」。一つには、神は愛であり、「とこしえの王」でもあられるので、愛は決して絶えず、終わることがない。(テモテ第一 1:17)ローマ 8章38節と39節では、わたしたちに対する神の愛は決して絶えないと保証されている。「死も、生も、み使いも、政府も、今あるものも、来たるべきものも、力も、高さも、深さも、またほかのどんな創造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを、わたしは確信している(の)で」ある。また、愛には欠けたところが全くないという意味で、愛は決して絶えない。愛はどんな場面にも、どんな難題にも、立ち向かってゆけるのである。アガペー愛に含まれない事柄