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スパルタ(自らはラケダイモンと称した)は、古代ギリシアの(ドーリア人)による軍事都市国家(ポリス)。 ペロポネソス半島の南、ラコニア地方エウロタス河畔に位置する。ギリシア神話では、トロイア戦争の原因となったヘレネの夫メネラオスがスパルタ王だったことになっている。
| Table of contents |
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2 スパルタの成立 3 政治と社会生活 4 スパルタ軍と戦争 |
新生児は部族長老の面接を受け、虚弱者は山奥の洞穴に遺棄された。男子は7歳で家庭を離れ共同生活を送り、12歳から本格的な肉体的訓練とスパルタ人としての教育を受けた。軍事訓練の一つとして、ヘイロタイから物を盗み殺害することも奨励されたという。こうして、彼らは質実剛健、忍耐と服従を身につけ、18歳で民会の全会一致により成人の仲間入りを果たした。こうした人材育成はスパルタ教育と言われる。
軍事に携わるようになると将軍の管理下に置かれ、毎日15人単位の夕食会に参加して、政治談義に加わった。共同食事は団結の醸成の場であり若者の教育の場でもあった。戦場で臆病と見なされた場合、全ての共同体から排除され顎髭の半分を刈りとられた姿で生きなければならなかった。60歳になると兵役が免除された。
女性にも体育が奨励され健康な子を持つことが期待された。15歳位になると親が決めた30歳位の男子と結婚させられた。戦死することが多かったスパルタでは、兄弟で一人の女性を妻に迎えたとも伝えられる。妻は夫と昼間に顔を合わせることはほとんどなかったという。家庭の奥に籠もって一生を送ったアテナイの女性に比べれば自由であったというが、その境遇は過酷であった。
スパルタ人は徹底的に贅沢を排除して、貴金属の装飾品を身につけることさえ禁じた。商業は約2万人の半自由民であるペリオイコイに従事させたが、鉄貨の使用しか認めていなかったので海外貿易が振るわず、必需品が流通するばかりであった。
ペルシャ戦争後、ペロポネソス同盟盟主としてデロス同盟の盟主であったアテナイとペロポネソス戦争を戦った。籠城戦を選択したアテナイに紀元前404年疫病が蔓延したこともあり勝利しギリシャの覇権を獲得した。しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらした。質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じたため、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。紀元前371年、レウクトラの戦いでエパミノンダスに率いられたテーバイ軍に破られ覇権を失って以降、国勢は衰退の一途をたどった。
スパルタの基本制度
スパルタ市民はリュクルゴス (Lykurgos) 制度に基いた社会生活を営んだ。土地の均等配分、長老会設置、民会設置、教育制度、装飾品の禁止、共同食事制がその基本である。リュクルゴスは紀元前9世紀、諸国遍歴の末、この制度をスパルタに成立させた伝説的な立法者である。スパルタの成立
紀元前10世紀ころに祖先がギリシャ北方からペロポネソス半島に侵入し、ミュケナイ時代の先住民アカイア人を征服しヘイロタイ(奴隷)にした。奪った土地はスパルタ市民に均等配分され、約15万人とも25間人ともいわれるヘイロタイは奴隷から解放されることも移動することも許されず、土地を耕してスパルタ人に貢納した。スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千~1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘロイタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと飛ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘロイタイの集落を襲った。政治と社会生活
国政においては2人の世襲の王が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた。長老会は、全市民参加の民会によって兵役免除に達した60歳以上の中から28人が選出され、2人の王を加えた30人で構成され、その地位は終身であった。民会の決定に対して拒否権を有し、事実上の最高決定機関であった。また、民会によって、30歳以上の市民の中から、毎年5人の監督官 (Ephoroi) が選ばれて、王を含む全市民に対する監督権と司法権を保持した。スパルタ軍と戦争
勇猛果敢なスパルタ軍は被抑圧民の反乱を鎮圧することが主要任務であったが、ペルシャ戦争においてその真価を発揮した。紀元前480年、テルモピレーの狭い海浜でスパルタ王レオニダスは300人の部下を率いてペルシャの大軍を迎え撃ち3日間持ちこたえた(テルモピレーの戦い)。最後に地元民に内通者が出てペルシャ軍に迂回路を教えたため、敵に背後を突かれて全員玉砕した。結果的に時間を稼いだことから、アテナイ海軍によるサラミス沖の海戦の勝利に貢献し、その勇敢な戦いぶりが全ギリシャ人から称賛を受けた。