|
|
現在中華人民共和国領の東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)に居住するウイグル人(Uyghur, 維吾爾族)の民族名は、1920年代にソビエト連邦が古代ウイグルの名を復活させ、ソ連領西トルキスタンに居住していたタリム盆地出身のテュルク系ムスリム(イスラム教徒)に与えた民族名Уйгур(Uigur)が、1930年代に中国側でも採用された結果定着したものである。
中国魏晋南北朝時代の記録に残る高車の一部族、袁紇氏が史料上の初見である。
突厥が北アジア・中央アジアを支配した時代に碑文に現れる9部族連合「トクズ・オグズ」(漢文史料では「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)のひとつとなっていた。ウイグル(回鶻)部族の首長であるヤグラカル(薬羅葛)氏族が全トクズ・オグズを指導したことから、九姓鉄勒全体をもウイグルと称すようになったようである。
8世紀に突厥(突厥第二可汗国)が衰退すると、ウイグルを中心とする鉄勒諸部族は突厥と戦い、その勢力を侵食した。744年、ヤグラカル氏のウイグル部族長クトゥルグ・ボイラがキョル・ビルゲ可汗(「海のように賢明な王」の意)の称号を名乗るようになり、翌年には突厥を滅ぼして遊牧ウイグル帝国を築いた。
キョル・ビルゲ可汗(在位744年 - 747年、中国名は懐仁可汗)の後を継いだ葛勒可汗(747年 - 759年)は、安史の乱に悩まされていた唐に援軍を送り、長安の奪還に貢献した。こうして中国と遊牧民の絹馬貿易を拡大することを唐に認めさせたウイグルは、モンゴル高原にバイ・バリク(富貴城)、オルドゥ・バリク(回鶻単于城)などの城郭都市を建設してソグド人や中国人を住まわせ、交易や農耕に従事させて富を蓄えた。三代目の牟羽可汗(759年 - 779年)はマニ教僧を招き、ウイグルにマニ教を導入した。
840年、ウイグルで大規模な内乱が発生している最中に北方に住むキルギスの大軍が襲来し、第12代可汗を殺した。これによって遊牧ウイグル帝国は崩壊し、モンゴル高原は4世紀後のモンゴル帝国の登場まで統一政権を持たない時代が続く。
遊牧ウイグル帝国が崩壊したとき、一部のウイグル人はモンゴル高原を捨てて散らばった。南の河西地方(現在の甘粛省)にたどり着いた者は、甘州(張掖)・沙州(敦煌)のオアシスを中心に在来の漢民族、チベット人を支配して甘州ウイグルと呼ばれる小王国を築いたが、西夏に滅ぼされた。
西に行った者はカルルクなどの天山山脈西北麓のチュルク系遊牧民に吸収されるが、テュルク系遊牧民の立てたイスラム王朝であるカラ・ハン朝はこれらのウイグルの残余を含んでいたとも言われる。一方天山山脈の東北麓のビシュバリク地方に行った者はこの地に天山ウイグル王国を建設し、南麓のトゥルファンを支配した。カラ・ハン朝と天山ウイグル王国は次第に定住化して従来からの定住民と一体化していったため、彼らの支配した天山・タリム盆地一帯は言語のテュルク語化が進み、テュルク人の土地(東トルキスタン)と呼ばれるようになる。
甘州ウイグルが滅びた後、天山ウイグルはウイグルを名乗る唯一の勢力となったが、モンゴル帝国時代にチャガタイ・ハン国の中央アジア支配によって圧迫されて13世紀末に王家が甘粛に移った。残ったウイグルの人々も仏教徒であったがために14世紀のチャガタイ・ハン国のイスラム改宗によってイスラム化の圧力が強まり、中央アジアでは消滅に向かっていった。
遊牧ウイグル
中央アジアのウイグル