|
|
関ヶ原の戦いで実権を掌握した徳川家康は1603年に征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開いた。家康の政治目標は長期的に安定的な政権をつくることであったので、豊臣家の処遇が問題であった。
徳川家はまず平和的に解決する道を模索し、徳川秀忠の娘である千姫を豊臣秀頼と結婚させた上で、秀頼の官位を右大臣とした。そして秀頼に対して臣下の礼を取るように要求したが、秀頼の方は拒否した。
家康は徳川幕府の今後の安泰を図るため、豊臣家の処分を考えた始めた。
大阪冬の陣
1614年に豊臣家が再建した方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」とあったものを、家康は「家康を分断し、豊臣家の反映を願うものだ」とし、家康は豊臣家に対して謝罪と領地召し上げ(代替地は用意してあったらしい)を要求した。
豊臣家は「大阪城は秀吉公以来の居城であり、豊臣家への敵意である」と考え、この要求を徳川家康の実質的の宣戦布告と受け取り、片桐且元、織田有楽斎など和平派を追放、決戦の準備に着手した。これに対して家康も諸大名に豊臣追討を宣言した。
豊臣家は全国から約5万人の浪人衆を結集させ、また豊臣恩顧の諸大名に大阪城に終結するように檄文を送った。しかしながら既に天下は誰の目にも徳川家康が入手におさめており誰も豊臣側にかけつかなかった。豊臣軍は豊臣家宿老の大野治長を中心とする篭城派と、浪人衆の真田幸村などの近江の瀬田川での野戦派で対立したが、結局は堅固な大坂城に籠城する作戦を立てた。徳川軍は約20万もの軍で大坂城を包囲したが豊臣軍も真田幸村や木村重成の踏ん張りでよく奮戦した。
予想外の長期戦に用意していた兵糧が底を尽き始めた徳川軍は、豊臣軍との和平交渉を進め、外堀を埋めることで和平が成立したが、徳川軍は外堀以外にも内堀をも埋め、城壁まで破壊した。 豊臣家は抗議したが家康は黙殺し、豊臣家は最終決戦を決意した。
大阪夏の陣
豊臣家は丸裸にされた大阪城では籠城戦は不利と判断し、積極的にうって出る作戦を立てた。まず真田幸村、後藤又兵衛などにより大和路から大阪城に向かう徳川軍を迎撃する道明寺合戦、木村重成、長宗我部盛親らによる京都から大阪城に向かう徳川本軍を迎撃する八尾合戦、大野治長などによって和歌山から大阪城に向かう徳川軍を迎え撃つ堺攻防戦が繰り広げられるが、道明寺合戦以外では豊臣軍は敗退し、大阪城近郊に追い詰めされた。
最後の決戦のため豊臣軍は大阪府阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を構築した。圧倒的な徳川軍の怒涛のような攻撃に豊臣軍は必死の抵抗を繰り広げたが、なかでも真田幸村は「目指すは家康の首、ただ一つ!他は打ち捨てよ!」と大号令を発し、三度に渡って家康本陣に切り込み、家康自身も自害を考えるほどの猛烈な戦いを展開した。
一時は真田幸村の突撃で崩れかけた徳川軍も、結局、火力に勝るため徐々に豊臣軍を壊滅させていき、真田幸村の戦死の報で豊臣軍が総崩れになると大阪城内部で火の手があがり、大阪城は陥落した。豊臣家の最期を悟った豊臣秀頼は淀君らとともに自害した。
大坂夏の陣での真田幸村の活躍を島津家の薩藩旧記では、以下の様に記している。「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、徳川方、半分敗北」