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メアリー(Mary Stuart、1542年12月8日 - 1587年2月8日)、スコットランド女王(在位、1542年12月14日 - 1567年7月24日)。スコットランド王ジェームズ5世と王妃マリー・ド・ロレーヌの長女。

1542年12月14日にジェームズ5世が亡くなると、長男と次男が早世していたため、わずか生後6日で王位を継承した。摂政には、ジェームズ2世の曾孫の第2代アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任した。1547年、イングランドの政権を握ったサマーセット公エドワード・シーモアの攻撃を受け、迎撃に出たアラン伯が敗れる自体になった。1548年、王母マリーの提案でメアリーはフランスのアンリ2世の元に逃れた。
1558年4月24日、メアリーはアンリ2世の皇太子フランソワと結婚式を挙げた。同年11月17日にエリザベス1世がイングランド女王に即位すると、アンリ2世は「庶子であるエリザベスの王位継承権には疑義があり、メアリーこそ正当なイングランド王位継承賢者である」と抗議した。さらに、1559年9月にはフランスとイングランドの講和条約締結の後に、駐仏イングランド大使を招いた祝宴の席で、イングランド王位継承賢者であることを示す紋章を発表し、エリザベスを激怒させた。7月10日にアンリ2世が亡くなると、皇太子フランソワがフランソワ2世として即位し、メアリーはフランス王妃となった。この年から翌年にかけてスコットランドではプロテスタントの反乱が起こり、これにイングランドが介入して、フランス海軍は大打撃を受けた。7月6日、エディンバラ条約が結ばれ、フランスのスコットランドへの軍事介入の禁止と、イングランド王位継承賢者を示す紋章の使用禁止が謳われた。(実際には、メアリーは、この紋章を使用し続けた)
1561年11月5日、フランソワ2世が病死した。子供ができなかったメアリーは、翌1562年8月14日にスコットランドに帰国した。メアリーは父の庶子のマリ伯ジェームズ・ステュアートとウィリアム・メイトランドを政治顧問とした。当時のスコットランドは、宗教改革が進み多くの貴族がプロテスタントに改宗していたが、カトリックの貴族も相当数残っていた。マリ伯とメイトランドはともにプロテスタントであったが、メアリーは宗教の選択には寛容で臨むと宣言し、両派の融和を演出した。
1565年7月29日、メアリーは従兄弟のダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと再婚した。メアリーはヘンリーに対し王族に対してしか与えられなかったロス伯、オルバニー公位を与え、また自分が先になくなった場合にはヘンリーに王位を継承させるなどとしたため、多くの貴族の反感を買った。しかし、メアリーはヘンリーへの熱もすぐ冷め、音楽家で秘書のダヴィッド・リッチオを寵愛するようになった。1666年3月9日、ホリールードハウス宮殿で食事をとっているとき、武器を手にした数人がリッチオを拉致し、ダーンリー卿の部屋に近い謁見室で殺害するという事件が起きた。メアリーは流産の危機を迎えたが、6月19日無事に息子ジェームズを出産した。
その後、メアリーはボスウェル伯ジェームズ・ヘバーンに心を寄せるようになった。1567年2月10日、エディンバラのカーク・オ・フィールド教会(現在のエディンバラ大学構内)でダーンリー卿が殺害されているのが発見された。ボスウェル伯はメアリーに結婚を申し込み、その数日後ダンバー城にメアリーを連行し、結婚に踏み切らせ、5月15日に二人は結婚式を挙げた。当時、ダーンリー卿殺害の首謀者はボスウェル伯、共謀者はメアリーであると見られており(実際の証拠はなかったが)、カトリック・プロテスタント双方がこの結婚に反対した。まもなく、反ボスウェル派の貴族たちが軍を起こした。6月15日にメアリーはエディンバラの東のカーバリー・ヒルで反乱軍に投降した。メアリーはロッホリーヴン城に移され、7月24日に廃位させられた。
1568年5月、ロッホリーヴン城を脱走したメアリーは6000人の兵を集めて軍を起こすが、マリ伯の軍に敗れ、イングランドのエリザベス1世の元に逃げ込んだ。メアリーはイングランド各地を転々としたが、軟禁状態とは思えないほど自由に近い生活をすることを許された。しかし、たびたびイングランド王位継承賢者であることを主張し、またエリザベス廃位の陰謀に関係した。1570年にはリドルフィ事件(ロベルト・ディ・リドルフィがたくらんだ事件)、1586年のバビントン事件(カトリックのアンソニー・バビントンがエリザベスの暗殺を狙った事件)などである。バビントン事件の裁判ではメアリーが関与した証拠が提示され、有罪・死刑を言い渡された。エリザベス1世は死刑執行書への書名を渋ったが、結局、翌1569年2月8日フォザリンゲイ城のホールでメアリーは処刑された。
なお、メアリーは王家の名称をStewertからStuartに替えたが、これは自身のフランス好みからであったという。
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