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![]() アルプス越えのナポレオン |
ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、1769年8月15日-1821年5月5日、コルシカ島アジャクシオ生まれ、セントヘレナ島で没)は、フランスの軍人・政治家で、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン1世(在位1804年-1814年、1815年)。
コルシカ島の平民の次男として生まれた。出生時の名前はナブリオーネ・ブオナパルテ。父や兄のジョゼフとともにフランスへ渡って教育を受けた。砲兵士官としてフランス革命に参加して、トゥーロンで功名を立て、パリで王党派を鎮圧。貴族の未亡人ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。イタリア遠征を指揮してオーストリアに大勝する。その後、エジプト遠征に失敗して帰国。
1799年のブリュメールのクーデタで執政政府を樹立。第一執政となって、マレンゴの戦いでオーストリアに再び勝利。フランス銀行の設立・ナポレオン法典の編纂などの諸改革に成功、終身執政となる。
1803年にはアミアン講和条約で一時的にイギリスと講和。1804年、国民投票により皇帝に即位する(第一帝政)。彼を人民の英雄と期待し英雄交響曲を作曲していたベートーヴェンは失望する。小土地自由農民とプチブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティスムと呼ばれる。
![]() 皇帝時代のナポレオン |
イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアなどの対仏大同盟の連合軍と、ウルムの戦い・トラファルガーの海戦・アウステルリッツの戦い・イエナの戦い・アウエルシュタットの戦い・アイラウの戦い・フリートランドの戦いなどを連戦して勝利。1807年にはイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパを制圧、ティルジット条約でロシアと講和した。イタリア・ドイツ・ポーランドはフランス帝国の属国に、オーストリア・プロイセンは従属的な同盟国となる。1806年に大陸封鎖令を発布。1808年にはスペインブルボン朝の内紛に乗じて兄ジョゼフを王位につけるも、イベリア半島戦争(1808-1813)ではフランス軍は伏兵に苦戦(このとき「ゲリラ」という言葉が生まれた)。ナポレオン軍の虐殺を描いたゴヤの絵画は有名。1809年のヴァグラムの戦いでは再び離反したオーストリアを三度破り、皇后ジョゼフィーヌを離別して、オーストリア皇女マリ・ルイーズと再婚。やがて大陸封鎖が破綻してフランス産業は苦境に陥る。1812年、ロシア遠征で60万の大軍はロシアの焦土戦術や冬将軍に遭って壊滅。新兵を召集するが、1813年のライプツィヒの戦いでも大敗。1814年には帝国の首都パリが陥落して、やむなく退位。エルバ島に配流される。
![]() ナポレオンの墓 |
1815年、再起を期して同島を脱出、パリに戻って奇跡の復位を成し遂げるが、ワーテルローの戦いで完敗して百日天下に終わり、再び退位して大西洋の孤島セントヘレナ島に再び流刑となる。
ナポレオンは、フランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって、彼自身の帝国が滅亡するという結果に終わった。一連のナポレオン戦争では200万人の命が失われたという。1840年に彼の遺骸はフランス本国に返還され、現在はパリのオテル・デ・ザンヴァリッド(廃兵院)に葬られている。ナポレオンの栄光を想う感情は、第二帝政を生み出すことになる。
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2 ナポレオン麾下の元帥 3 外部へのリンク |
ナポレオンの名言
「我輩の辞書に不可能の文字はない」
「天才は、己が世紀を照らして光り輝くべく運命づけられた流星である。」ナポレオン麾下の元帥
外部へのリンク
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