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コルシカ島

コルシカ島(こるしかとう)は、地中海西部、イタリア半島の西に位置する。現在はフランス領。面積は約8700平方キロメートル、人口は約26万人。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島に次ぐ4番目に大きい島である。島の名前「コルシカ」はイタリア語で、フランス語では「コルス」、コルシカ語では「コルシガ」となる。

地理

島のほとんどが急峻な山岳で占められ、2500メートルを超える高峰が連なる。高峰は島を二つに分けるように西北から南東へ連なっており、その西側と東側では風俗や社会形態、言語などが対照的に異なっている。

沿岸部の気候は他の地中海沿岸地域と大差なく、年中温暖で少雨である。しかし、山岳地域は冷涼多雨で冬季には雪が積もり、極めて対照的である。スキー場が4箇所もある。

政治

行政的には、島全体が「コルス」という一つの地方行政体となっていて、首府は西部にある都市アジャクシオにある。アジャクシオにはコルシカ地域議会も1982年から置かれている。地方行政体の「コルス」はフランス本土で言う「州」あるいは「地域圏」に近い組織だが、コルシカは島であることから、税制や言語文化など幾つかの部門で特権が与えられている。首府アジャクシオはナポレオン・ボナパルトが1769年8月に生まれたことで有名であり、彼の生家は今でも見学できる。またつい最近までこの都市の市長はボナパルト派と呼ばれる政治勢力が握っていた。

島を二分する山脈を境界線とする二つの県が置かれ、西部はアジャクシオを県庁とするコルス・デュ・シュッド県、東部はバスティアを中心とするオート・コルス県となっている。それぞれの県の人口はほぼ13万人ずつである。

県庁所在地であるアジャクシオやパスティアの人口はそれぞれ6万人、4万人である。 地中海の他の島と比べて人口は希薄で、それ以外に人口が1万人を超える都市は南部のポルト・ヴェッキオしかない。それ以外の主要な町は、島中央部に位置し、大学のあるコルテ、島最南端に位置し、南隣のサルデーニャ島との連絡航路があるボニファシオ、北西部に位置し、クリストファー・コロンブスが生まれたとも言われている城塞都市カルヴィなどだが、人口はせいぜい7000人である。

歴史

コルシカ島の歴史は波瀾に満ちている。太古の昔は山岳部に居住する先住民と外来の支配者に明確に区分されていた。先住民についてはその詳細は今だ解明されていないが、ケルト先住民と共通する文明、例えば巨石文明や人物の彫塑のある石柱が島の南部に多数見られる。一方外来者は、紀元前にはフォカイア、エトルリア、カルタゴなどが、中継貿易拠点としてコルシカ島の沿岸地帯の覇権を争った。島東部海岸にあるアレリアにはエトルリアの遺跡がある。最終的に島に対する覇権を握ったのはカルタゴだったが、ポエニ戦争古代ローマに敗れたため、紀元前3世紀頃から島の支配権はローマに移る。ローマはアレリアに都市を建造し、さらに北部バスティア南郊にマリアナを築く。ローマによる繁栄はしばらく続くが、ローマ帝国が東西に分裂し、ゲルマン勢力の侵入が始まると、コルシカ島には外部勢力、特に海賊による襲撃が始まる。

6世紀後半頃から十字軍によるイスラム勢力のヨーロッパからの駆逐が完了する11世紀頃までこの状態が続き、島ではこの期間を「暗黒時代」と呼んでいる。山岳部の先住民たちはローマ時代には平地に降りて、ローマ人と共存した時期もあったが、暗黒時代になると外部民族の襲撃を恐れて、再び山岳部の小集落(パエーゼ)に身を潜めて自給自足の生活にもどる。近代以降フランスではコルシカの独自の風習が取り上げられているが、その独自性はこの暗黒時代に遡るようだ。

中世になるとイタリア半島の都市国家、ピサとジェノヴァがコルシカ島を植民支配する。ローマ教皇の命により11世紀ピサがコルシカ島を統治するが、その後ジェノヴァが徐々に島の沿岸地帯に城塞都市を建造し、ピサからその支配権を奪い取った。13世紀にはジェノヴァの支配が確立する。また、現在のコルシカにある都市のほとんどがジェノヴァ統治時代にジェノヴァによって建造されたものである。ジェノヴァの支配が過酷だったために、島民はたびたび反乱を起こしている。中世では16世紀のサンピエール(サンピエロ・コルソ)の反乱が最大のものであった。これはジェノヴァによって鎮圧されたが、1729年に始まる40年戦争はかつてなく大規模かつ組織的な闘争だったためにジェノヴァはこれを抑えられず、フランスに応援を頼むことになった。1768年にジェノヴァとフランスはヴェルサイユ条約を締結し、フランス軍をコルシカに派兵するかわりにジェノヴァは一定期間のコルシカ統治権をフランスに譲る、というものだった。一方、コルシカは1755年、独立運動の指導者パスカル・パオリを首班とする独立政府を樹立し、コルシカの国歌や国旗、憲法、通貨や大学、徴兵制など近代国家の原型ともいえる制度も創出していた。1769年、フランス軍とコルシカ軍との間で戦争が始まる。バスティア南郊のボルゴの戦いではコルシカ軍はフランス軍を駆逐したが、同年5月のポンテ・ノーウ(ポンテ・ヌオーヴォ)の戦いでは、フランス軍の圧倒的兵力の前にコルシカ軍は敗れ去り、パオリは英国に亡命する。これ以降島がフランス領になる。

こうした歴史的背景もあって、コルシカ島ではフランス併合後、断続的に民族主義運動が起きている。しかしそれはフランスからの独立というよりは、その経済規模の小ささとフランス国家への歴史的な依存性からフランス共和国の中にとどまりながら立法権など政治的決定権を獲得する自治主義が中心である。1975年8月に自治主義勢力とフランス治安当局との間で激しい闘争(アレリア闘争)が展開され、自治主義勢力が非合法化されると、分離主義勢力のFLNC(コルシカ民族解放戦線)が組織されるが、1982年に地方分権政策の一環としてコルシカ地域議会が設置されると求心力を失い分裂する。そして現在繰り広げられている武力闘争は独立戦争などではなく、民族主義を名乗るグループ同士の内部抗争であり、近年は失業で悶々としている島の若者たちをリクルートするなど非行問題化しつつある。一般の島民は民族主義には理解しつつも、政治運動からは一線を画しており、コルシカ人がフランスからの独立を望んでいるという指摘は不正確である。また、コルシカ島はマフィアの島などと揶揄されることもあるが、これもまた不正確な表現である。マフィアをアメリカ映画などに出てくる犯罪者集団とするならば、そのような集団はコルシカ島にはいない。

文化

コルシカ島は文化や言語の面でフランス本土とはかなり異なり独自性を持っている。また、今日コルシカのアイデンティティの高まりで、コルシカの文化やこれを基盤にした芸術などを見直すさまざまな活動が行われている。その代表が、かつての即興詩吟をベースにしたポリフォニーである。複数の男性が楽器を使わずに奏でる多声合唱がその中心で、グループ「イ・ムヴリニ」がその代表格。それ以外に「ア・ヴィレーッタ」、「ティアミ・アディアレージ」、「カンター・ウ・ボーブル・ゴールス」、「スルディエンティ」などのグループがある。

コルシカ島は現在フランス領であるため、島民の日常語はフランス語である。島の言語であるコルシカ語は、学校教育やテレビ・ラジオ放送、広告・商標、文化活動などで盛んに用いられている。コルシカ語は表記や単語の綴字法はイタリア語に近いが、音韻の面ではフランス語やカタルーニャ語の影響を受けているようだ。

産業

コルシカ島の特産物は豚および豚肉燻製品、クリの粉から作ったお菓子類である。ワインやチーズの産地としても有名で、ワインはパトリモニオやミュスカ・デュ・カップ・コルス、チーズではフレッシュチーズのブローッチュが有名である。クリで作られたビール「ピエチュラ(ピエトラ)」もある。

交通

コルシカ島へは日本からは直行便はないが、パリをはじめとして、ニースやマルセイユなどのフランスの地中海の沿岸都市と航空路で連絡されている。島には四つの空港がある。一方航路はマルセイユ、ニース、トゥーロン、イタリアのサヴォナ、ジェノヴァ、サルデーニャ島と連絡があり、最高速度35ノットを誇る高速フェリー路線もある。

外部リンク





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