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(紀元前495?~429年)。古代アテナイの政治家。父は紀元前479年のミュカレの戦いの指揮官クサンティッポス、母はクレイステネスの姪。
紀元前462年、貴族派のキモンが出征中の不在を狙って、民主派のエフィアルテスとともにアレオパゴス会議の実権を奪って、全アテナイ市民による政治参加を促進した。翌年、キモンが陶片追放によって正式に国外追放されると、以後15年間、アテナイの第一人者の地位を独占する。
このころ、ペルシャ戦争に勝利したアテナイは全盛時代を迎えていた。大国ペルシャの脅威が薄れると、デロス同盟々主であったアテナイは、その同盟資金を自己の繁栄のために流用するようになった。デロス同盟は対ペルシャ防衛機関という本来の主旨を失い、今、アテナイ帝国を支える機関へと変質を遂げていたのである。ペリクレスもパルテノン神殿などの公共工事に同盟資金を積極的に流用しアテナイ市民の懐を潤した。
アテナイが同盟内のポリスに対して専制的に振る舞うようになると、同盟から離脱しようとするポリスとの間に対立が生じるようになる。また、ペルシャ戦争の勝利に大きな貢献をしたもう一つの有力ポリススパルタもアテナイの動きを冷ややかに見ていた。
スパルタがデロス同盟から離反したポリスを支援するようになると、紀元前431年、両者の間にペロポネソス戦争が発生した。ペリクレスは強力なスパルタ陸軍に対し城壁を閉じて籠城策をとり海上決戦の機会を狙っていたが、翌年、城内にペストが発生し多くの市民が犠牲となり、市民の支持を急速に失って自らもペストにかかって病没した。