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ギリシャ人

ギリシャ人とは、おおよそギリシャ地域に関係を持ち、ギリシャ語を母語とする人々のことである。ただし、歴史上時代によりギリシャ人と呼ばれる人々の示す内実は異なる。

古代

古代におけるギリシャ人は、ギリシャ語を話し、特に自由民であるものをいう。ギリシア本土だけでなく、小アジアヨーロッパの各地にギリシャから移住した者の手によって建設された植民市の住民も含む。

後に、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の大帝国建設などを経て、マケドニア地方出自者などまで含めて、広く中央アジアから地中海世界の各地にまで広がったギリシャ語を常用するものをも指すように転じた。

中近世

中世近世におけるギリシャ人は、主に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やオスマン帝国の統治下で、ギリシャ地域や小アジア、エーゲ海の島々に広く居住し、ギリシャ語を母語とし、正教会キリスト教を信奉した人々のことである。

血統的には古代からの連続性があったと通常考えられているが、バルカン半島でスラヴ人と接触する機会の多かった北部などでは、スラヴ人の南下によって混血が進められたと考えられており、「中世以降のギリシャ人はギリシャ語・正教信仰を受け入れギリシャ化したスラヴ人に過ぎない」とみなした学者もいる。

彼らは他のキリスト教徒の諸民族からはもっぱらギリシャ人と呼ばれたが、自身は東ローマ帝国市民としての自意識を持ち、ローマ人と自称していた。しかし同時に、ギリシャ語を日常と学問の言語として尊重しており、東ローマ帝国末期のパレオロゴス朝期にはギリシャ古典文化が大いに見直され、復興を果たす。彼らの一部はヴェネツィア共和国によるモレア半島、キプロス島クレタ島などの支配や1453年コンスタンティノープルの陥落の影響で次第にイタリアなど西ヨーロッパに渡ることも多くなり、ルネサンス期の古典復興に大いに貢献したと言われる。西ヨーロッパに渡ったギリシャ人の中では、画家イル・グレコが有名である。

本来の居住地においては東ローマ帝国の消滅後も、オスマン帝国の領内でズィンミーとして東方正教会の信仰を維持することを認められ、コンスタンティノープル総主教を長とする正教徒の自治体(ミッレト)を形成した。ブルガリア人やセルビア人などのバルカン半島の正教徒諸民族までを含むオスマン帝国の正教徒社会の中で、イスタンブールを中心に帝国の中央部に住むギリシャ人たちは優位に立ち、通訳官や地方長官として高い地位を得た者も現れた。

この時代を通じて彼らのアイデンティティの源はなにより正教の信仰であり、ギリシャ人という自意識を再獲得するのは、ようやく18世紀から19世紀になってヨーロッパから民族主義思想と古代ギリシャの栄光の記憶がもたらされたときであった。近代ギリシャ民族意識の誕生は、同時にオスマン帝国から独立してギリシャ人の独立国家を獲得しようとする運動を生む。

近現代

1830年、ギリシャ王国がオスマン帝国から独立を果たし、400年ぶりにギリシャ人は自分たちの国家を持った。しかし、多くのギリシャ人は依然としてオスマン帝国領内に住み、コンスタンティノープル総主教を頂点とする社会を維持していた。このことから、新独立のギリシャ国家の内側では、国外に残されたギリシャ人の居住地域をギリシャ国家の領土に回収しようとする思想、「メガリ・イデア」が生まれる。

第一次世界大戦にオスマン帝国が敗北し、その領土が西洋列強の手に分割されたことは、ギリシャ王国にとっては小アジアに広がるギリシャ人の居住地帯を自領に加える最大の好機をもたらした。1919年、ギリシャ軍は小アジアに上陸し、列強の同意を得て、スミルナ(イズミル)を中心とする小アジア西南部のエーゲ海沿岸一帯を占領下に置いた。しかし、ムスタファ・ケマルらによってアンカラに打ち立てられたトルコ革命政府の激しい抵抗を受け、激戦の末に1922年、ギリシャ軍はイズミルから撤退してアンカラ政府(後のトルコ共和国政府)と休戦した。このとき、トルコとギリシャの間では住民交換協定が結ばれ、トルコ領から90万人以上のギリシャ人がギリシャへの移住を余儀なくされた(トルコ語を母語とする正教徒もギリシャ人として住民交換の対象となった)。このため、かつては小アジアの各地に数多く住んでいたギリシャ人も、現在はイスタンブールにわずかに残るのみである。

こうしてギリシャの領土が、縮小したもののほぼギリシャ人の居住地域と一致するようになったが、例外としてオスマン帝国の崩壊以前にイギリスの植民地となっていたキプロス島が残された。キプロスをギリシャに併合しようとする要求は、この島に数多く住むトルコ人たちとの軋轢を生む一方、ギリシャ併合を求める過激派のイギリス当局に対するテロを頻発させた。こうしてイギリス、ギリシャ、トルコによって妥協案が検討され、1960年にキプロス島はキプロス共和国としてどの国にも属さない独立国になった。

しかし、独立後もキプロスではギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人の反目が続いた。1973年にギリシャ軍政政権の支援を受けて起こったギリシャ併合賛成派組織によるクーデターをきっかけとして、トルコ軍は本格的にキプロスに介入しキプロス島北部を占領、トルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国を建国させた。これにより、従来からのキプロス共和国政府は統治する領域が全島の3分の2に縮小し、統治する人々のほとんどがギリシャ系住民となったが、キプロス共和国、ギリシャと国際社会はキプロスの再統合を求め、トルコの対応を非難している。

以上でみてきたように、現代においてはギリシャ系の人々はギリシャ共和国のみならずイスタンブールやキプロスまで含めて広がっており、ギリシャ人という語は、ギリシャ国籍を有する者という意味と、広くギリシャ系の人々を指す場合と、二重の意味を有すると言える。

関連項目





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