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なお、ペルシア語の発音に即して「バハーイー」と日本語表記されることが多いが、日本のバハーイー共同体は「バハイ」と呼んでおり、「バハイ教」「バハイ信教」とも表記される。
バハーイー教は伝統的にアブラハムの宗教に含まれていないが、モーセ、イエス、ムハンマドらを預言者と認めており、これにバハーイー教自身の預言者を加える。彼らとゾロアスター、釈迦などの世界の大宗教の創始者は神の顕現であり、バハーイー教の創始者バハーウッラーはそれらの最も新しい時代に生まれたひとりであるとされる。
人類の平和と統一を究極の目標とし、男女平等、一夫一婦制、禁酒などの戒律を持つ。発祥地のイラン、中東に留まらない世界的な普遍宗教としての性格を有する。
バハーイー教には聖職者はおらず、各地のバハーイー共同体は「地域の精神的な会議」と呼ばれる、自由に選ばれた9メンバーの行政会によって管理される。同様に、全国精神的な会議と呼ばれる9メンバーの行政会は、全国バハーイー共同体の事務を指示し調整する役目を負う。その上に万国正義院の世界全体を管轄する9メンバーの行政会がおかれる。これらのメンバーは、成人のバハーイー教徒の中から共同体に役立つことができる信徒を互選することになっている。
バハーイー教では、バハーウッラーの権威から連続した「聖約」(神との契約)を重視するため、バハーウッラーの後継者アブドゥル・バハーとその後継者および「万国正義院」と呼ばれる現在のバハーイー共同体最高機関の権威を否定する信徒は「聖約を破る人」としてバハーイー共同体から除名されることになっている。
1844年に、イランのシーラーズの商人セイイェド・アリー・モハンマド(バハーイー教では預言者のひとり)が、イマームと交信する能力があると宣言して、アラビア語で「門」を意味する「バーブ」の称号を名乗った。彼の開いたバーブ教は、実質的にイスラム教から独立した宗教であるとみなされる。シャイヒー派の信徒を中心に多くの十二イマーム派の信徒に支持されたが、イランの十二イマーム派ウラマーたちの強い反発を招き、カージャール朝政府の弾圧を受けた。バーブ教信徒たちは反乱を起こして抵抗したが鎮圧され、結局バーブは1850年、タブリーズで処刑されるが、信徒たちはオスマン帝国領に逃れて信仰を続けた。
カージャール朝に仕える高級官僚の家系に生まれたミールザー・ホセイン・アリーは、バーブ教が開かれた直後からバーブの信徒で、1852年に政府により逮捕され拘束された。このテヘランでの獄中生活の最中に、彼はバーブがそれを受け取る者が現れると予言していた啓示を最初に受け取ったとされる。9年後の1863年、ホセイン・アリーはイラクのバグダード(オスマン帝国領)に追放されるが、ここで彼は正式に、自身がバーブの予言した預言者、「神が現し給う者」であると宣言し、アラビア語で「神の栄光」を意味するバハーウッラーの称号を名乗った。これがバハーイー教の実質的な起こりである。
バハウッラーの教えはバーブ教のほとんどの信徒に受け入れられたが、バハーウッラー自身はイラン政府とオスマン政府の警戒を受けて、バグダットからイスタンブール(コンスタンチノープル)、エディルネ(アドリアノープル)に移される。最終的には1868年にパレスチナのハイファー(アクレ)に流され、1892年に亡くなるまでそこに留められた。アクレの地はバハーイー教徒にとっての聖地となっている。
ハイファ/アクレ地域の他の重要なバハーイー教徒の聖地はハイファのカルメル山の斜面に位置するバーブの墓あるいは聖堂である。バーブの遺骸は、イランから聖地へ秘密裏に運ばれ、バハーウッラーによって指定された場所に築かれた聖堂に埋葬された。
バハーウッラーは、数多くの書物を著したが、中でも『至聖の書(キターベ・アクダス)』は『コーラン』やバーブの著した『バヤーン』に代わる教典とみなされる。
バハーウッラーによって後継者に使命されたのは、彼の長男、アブドゥルバハー(彼の名前はアラビア語で「栄光のしもべ」を意味する)であった。バハーウッラーは長男を「聖約の中心」と呼ぶように定め、全てのバハーイー教徒がバハーウッラーの支持に従うよう指示した。
アブドゥルバハーは既に父の長い追放と監禁の生活を共に過ごしていたが、彼の継承後も監禁生活は1908年の青年トルコ革命まで続いた。解放後、アブドゥルバハーは父の教えをアラビア語で「バハーに従う者」を意味する「バハーイー」と呼ぶことを宣言した。彼はヨーロッパとアメリカに旅行して世界的な宣教を開始し、多くのバハーイー教文献が様々な言語に翻訳された。1921年11月28日にアブドゥルバハーはハイファーで亡くなった。
アブドゥルバハーは「万国正義院」と呼ばれるバハーイー共同体最高機関の設置を定め、後継者として最年長の孫、ショーギ・エフェンディを「バハーイーの守護者」に任命した。祖父が死んだときオックスフォード大学の学生であったショーギ・エフェンディは、1957年にイギリスで死去するまでの36年間、万国正義院に指導されるバハーイー共同体の組織確立に尽力した。バハーウッラーとアブドゥルバハーの著作の翻訳が精力的に進められたショーギ・エフェンディの時代にハイファーのバハーイー教本部は世界センターに発展し、バハーイー教の世界布教は大いに進展する。
1963年には、万国正義院の行政会を構成し世界のバハーイー教徒を指導する9人のメンバーの最初の選挙が行われた。教義
歴史
バーブ
バハーウッラー
アブドゥルバハー
バハーイー共同体運営機構の確立