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チベット仏教

チベット仏教は、チベットに伝来し、育った仏教の一派である。

ラマの尊称を持つ活仏を尊崇することから「ラマ教」という俗称でも呼ばれた時期もあったが、現在はこの俗称はあまり好ましくないとされ、ほとんど使われない。

Table of contents
1 歴史
2 チベット仏教の宗派
3 関連項目

歴史

仏教伝来

7世紀前半に仏教はチベットに伝えられ、ティソンデツェン王(742-797)の
779年、サムイェー大僧院の本堂完成の折、インドのナーランダー大僧院(那爛陀寺(ならんだじ))の長老シャーンタラクシタによって6人のチベット人に説一切有部(せついっさいうぶ)の具足戒(ぐそくかい)が授けられ、僧伽が発足した。以来、訳経事業が始められ、大部のチベット大蔵経が作られた。
現象世界を時間と空間とに分け、それぞれを実体視する「無明(むみょう)」によって執着(しゅうじゃく)し、苦しむものに「無自性(むじしょう)」を説き、利他行を勧める中観(ちゅうがん)の教えが普及した。

786年敦煌(とんこう)が占領されると、禅僧摩訶衍(まかえん)がチベットに招かれ、不思不観の坐禅による解脱を説いて流行した。王はこの教えの反社会性を憂え、シャーンタラクシタの弟子カマラシーラを794年に招き、摩訶衍を折伏(しゃくぶく)させて中観の教義を正統とした。摩訶衍の禅は利己的救済に終始して利他行を欠くから大乗ではなく、禅定に正見がないため「般若(はんにゃ)」の完成がなく「無自性」が悟れないからとされた。
797年頃カマラシーラは暗殺されたが、843年の王朝分裂まで仏教は栄え、訳経事業も824年には峠を越えた。王朝の統制がなくなると、如来蔵(にょらいぞう)思想を基盤にした当時流行の性瑜伽(ゆが)を説く在家(ざいけ)密教、すなわち、タントラ仏教が中国系の禅と共に流行した。

ツォンカパの登場

11世紀になると、戒律復興運動が起こり、僧伽が再興され在家密教がしりぞけられ、顕教(けんぎょう)による修習が盛んになり、般若経 の解釈学、唯識(ゆいしき)や如来蔵思想の研究、中観2派の論争などが続いた。
他方、新しい密教を学ぶものも現れ、当時インドから入国して仏教界を指導したアティーシャ(982-1054)も密教を勧めた。当初警戒された密教も次第に僧伽に受け入れられる形に改められていったので、顕教と併修される傾向が生じた。

その頃ツォンカパが現れ、顕教の中心に中観帰謬(きびゅう)論証派の教義を据え、密教の如来蔵思想に基づく理解を改めて、中観の「無自性」を深く観ずるための密教的禅定体系に変質する注釈を書き上げ、性的意義を除き戒律に背くことのない形で実践されるように行者の資格と修習の順序を厳しく規定した。

ゲルグ派の成立

このようにしてインド仏教が目ざした小乗・大乗・密教を統合した修道体系を組織してチベット仏教正統派の「黄教(こうきょう)」「浄行派(じょうぎょうは)」(ゲルク派)を1409年に立宗した。1642年ダライ・ラマ政権が成立すると、この派が政治的にも正統派として擁立された。

チベット仏教の宗派

  • ニンマ派(「紅教」「紅帽派」「古宗派」)
  • サキャ派
  • カギュ派(「黒帽派」はこの派の一派)
  • カダム派(ゲルク派に吸収)
  • ゲルク派(「黄教」「黄帽派」)

関連項目





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