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アッシリア

アッシリア(Assyria)

  1. メソポタミア北部に興った世界帝国(本稿で詳述)。
  2. 1.の末裔を自称し、現代アラム語を話すネストリウス派のキリスト教徒。アッシリア人を参照。


アッシリアAssyria)は、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国世界帝国。首都は、初期はアッシュールで、後にニネヴェに遷都した。南側にバビロニアと隣接する。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。アッシリアの偉業は、ペルシア帝国に受け継がれてその属州となった。「アッシリア」(Assyria) は「シリア」(Syria)の語源でもある。

「アッシリア」は、チグリス川上流にあった首邑アッシュール (Asshur) から名づけられた地域名である。同市はもともとはバビロニア王国の植民市で、王国の副王が統治していた。アッシリアはバビロニアの北西に位置する山岳地帯で、チグリス川に沿って広がり、アルメニアの高山地帯やゴルディア? (Gordiaean) 山脈やカルドゥチア? (Carduchian) 山脈にまで続いていた。

アッシリアは、紀元前1700年頃にベルカプカプ (Bel-kap-kapu) によって創建され、独立し征服する勢力となり、バビロニア王のくびきから脱した。やがてメソポタミア北部全体を支配するに至った。アッシリア人はいわゆる(聖書の創世記にいう)セム族であるが、非セム語の部族がアッシリアの住民と混ざっていった。彼らは後世に「東方のローマ人」と呼ばれるほどの「軍事」の民族であった。アッシリア人は、アナトリア半島に「商人の植民市」を建設した。例えば、紀元前1920年~1840年頃および1798年~1740年頃のキュルテペ(w:Kültepe)がそうである。そうすることによって、彼らは多くの有用な技術を未来のヒッタイト人に供給したのである。

Table of contents
1 初期のアッシリア王国
2 アッシリア世界帝国
3 関連項目
4 外部リンク

初期のアッシリア王国

アッシリア王国の初期の歴史は、確かなことはほとんど知られていない(アッシリア古王国)。

紀元前1120年頃、アッシリア諸王の中で最も偉大なティグラト・ピレセル1世(Tiglath-Pileser I)が、ユーフラテスを渡河し、ヒッタイトの諸王を撃破し、カルケミシュ市(Carchemish)を手中に収め、地中海岸にまで進出した。彼は、最初のアッシリア帝国の建設者として尊敬されたかも知れない。この後、アッシリア人は徐々に彼らの力を拡大し、シリア地方北部の諸国家を屈服させた。イスラエル王国のアハブ王(Ahab)の治世に、アッシリア王シャルマネセル2世(Shalmaneser II)はシリア地方の諸国家へ進軍した。すなわちアッシリア軍がシリア同盟軍をカルカル(Karkar)で撃破したのである。この出来事は、アハブをしてダマスカスのくびきを脱ぎ捨てさせ、南のユダ王国と同盟させしめた。数年後、このアッシリア王はダマスカス王ハザエル(Hazael)に対抗して軍を進めた。シャルマネセル王は、ダマスカスを攻囲し、陥落させた。彼はさらに、エヒウ治下のイスラエル王国およびフェニキアのティルス市とシドン市を属国とした。

アッシリア世界帝国

これより約100年後の紀元前745年頃、プル(Pul)と呼ばれる軍事的冒険家が即位する。彼はティグラト・ピレセル3世(Tiglath-Pileser III)に比定されている。王は、この時までに独立を回復していたシリア地方に軍隊を向けた。紀元前740年には、アレッポ(Aleppo)付近のアルパド(Arpad)を3年間の攻囲の後で陥落させ、ハマス王国(Hamath)を縮小に追い込んだ。ユダ王アザリア(ウジヤ、Azariah,Uzziah)はハマス王の同盟者だったため、ティグラト・ピレセル3世への毎年の貢納を強いられた。紀元前738年、イスラエル王メナヘム(Menahem)の治下に、プルはイスラエルに侵攻し、重い貢納を課した。イスラエル・シリアとの戦争に従事していたユダ王アハズ(Ahaz)は、金・銀を贈ることによって、アッシリア王に援助を求めた。これにより、アッシリア軍は「ダマスカスへ進軍し、レジン(Rezin)を打ち負かして死へ追いやり、ダマスカスを攻囲した。」 プルは、攻囲を継続し、「ヨルダン東の属州を通って進軍し、戦禍を広げ」、ピリスティア(Philistia)の支配者となり、サマリアとダマスカスを制圧した。王は紀元前727年に没し、シャルマネセル4世(Shalmaneser IV)が継承して紀元前722年まで統治した。彼はシリアを侵攻したが、後に廃位された。サルゴン2世が支持されたためである。

しかしながら、ついにその勢力も衰えてきた。紀元前727年には、力強いカルデア人の王子メロダク・バラダン(w:Merodach-baladan)の指揮下に、バビロニアがアッシリアの支配を排除した。が、12年後にはサルゴン2世によって鎮圧されていた。 サルゴンはバビロニアを再びつなぎとめ広大な帝国を支配した。しかし、彼の死に際して、反乱のくすぶる炎は再び破裂する。紀元前625年、バビロニアとメディアが独立を達成する。旧約聖書の解釈によれば、アッシリアはイザヤ([[w:Isaiah]|]])・ナフム(Nahum)・ゼファニヤ書の予言通りに没落したことになる。割拠した諸王国は、「偉大な王」を認識することを終えた。エゼキエル書は、アッシリアがいかに完全に打倒されたかを証明する。アッシリアは国家として消滅した。

関連項目

  • バビロニアとアッシリア(w:Babylonia and Assyria)
  • アッシリアの興隆(w:Rise of Assyria)
  • アッシリア第二帝国(w:Second Assyrian Empire)
  • アッシリアの諸王(w:Kings of Assyria)
  • バビロニアとアッシリアの年代記(w:Chronology of Babylonia and Assyria)

外部リンク


原典は1897年のEaston's Bible Dictionary。今日風に書き直す必要がある




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