Guajara in other languages: Spanish, Deutsch, English, French, Italian ...



ビートルズ

ビートルズ (The Beatles) は最も広く知られ、成功したロックバンドの一つである。イギリスのリバプールで結成、1962年にイギリスでレコードデビュー、1970年に解散。

Table of contents
1 メンバーと「主な」担当楽器
2 デビュー当初から初期
3 ライヴツアーの中止とバンド崩壊の危機
4 アルバム「サージェントペパーズ」の衝撃と後への貢献
5 解散と再結成?
6 解散後からビートルズ・アンソロジー
7 特記
8 ディスコグラフィー
9 フィルモグラフィー

メンバーと「主な」担当楽器

詳細

全員が作曲し、ボーカル、コーラスも担当。

ただし、オリジナル曲の約80%くらいは、「レノン&マッカートニー」名義で、ヒット曲のほとんどを二人で作った。実際の共作や合作はせいぜい30曲程度かそれ以下で、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」や「アイヴ・ゴット・ア・フィーリング」などのような、二人別々に作った曲のパーツを組み合わせた形も含んでの話である。

ハーモニーをとる場合は、声質の関係で、上のパートからポール、ジョン、ジョージ(曲によって、ジョンとジョージが入れ替わるパターンもあった)の3人でのハーモニーのパターンが多かった。

またジョン・レノン、ポール・マッカートニーのピアノなどのキーボード演奏は有名。ジョンは、中期にさしかかった頃のライヴでの「アイム・ダウン」で、(来日公演では実現できなかったが)リズムギターの代わりにワイルドなオルガンを度々プレイしていた。ただし、中期から後期になるにつれ、理由は不明だが、ジョン自身の曲でさえもキーポイントとなるキーボードのパートをポールがプレイするケースが目立ってくる。典型的な例が、ポールによる「ストローベリー・フィールズ・フォーエバー」のイントロのメロトロンである。ただし、ピアノ系はポール、オルガン系はジョンというパターンも、ジョン自身の曲やジョージの作品では少なからずあった。

その他の担当楽器

「ロング・アンド・ワインディング・ロード」など、中期から後期でのリアルタイムの演奏で、ポールがピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当することが多かった。ジョンとジョージは6弦ベースを演奏することもあったというが、諸説あり。(例えば、「トゥー・オブ・アス」は、ジョージがエレキギターでベースラインを弾いたもので、6弦ベースではない。)

ポール・マッカートニーは、「涙の乗車券」、「グッド・モーニング・グッド・モーニング」、「ヘルター・スケルター」、「バック・イン・ザ・USSR」等のリードギター、及び、「ブラックバード」、「マザー・ネイチャーズ・サン」などのアコースティックギターのナンバーにも優れた演奏が多い。「総合的には、一番ビートルズの中でギターがうまかったのが、デビュー前にベーシストに転向したポールだ」と主張する者も多い。「ジ・エンド」の間奏部分では、ジョン、ジョージ、ポールの3人によるギターバトルを聞く事ができる。

「エヴリ・リトル・シング」のイントロを含めた全ギター、「ハニー・パイ」でのジャージーなシンコペーション的フレーズを弾いているギターや、「ヤー・ブルース」の一方のギターソロ、「ゲット・バック」、「カム・トゥゲザー」などのリードギターはジョンである。

アルバム『アビー・ロード』でムーグシンセサイザー(英語の発音では「モウグ」の方が近い。)を導入したのはジョージで、彼が「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」や「ヒア・カムズ・ザ・サン」などで、演奏している。

その他、各人が曲によりパーカッションをプレイしている。ジョージのシタール、ジョンのサックス、リンゴのオルガン等、ご愛嬌のプレイや意図的な演奏もある。 

その他のメンバー、関係者

レコードデビュー以前のメンバーとして、スチュアート・サトクリフ(ベース)、ピート・ベスト(ドラム)の二名がよく知られている。

スチュアートは早い段階で病死したために、ポールがベーシストになるきっかけとなった。

ピートは、レコードデビュー直前(正式録音か、テストやリハーサルなのかは不明だが、確実な形で彼の参加した録音テイクは一部残っている。)に、他のメンバー3人がプロデューサーのジョージ・マーティンに申し入れし、彼らの希望していたリンゴを、他のバンドから引き抜く形で入れ替えられた。

ビートルズが大衆音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者としてマネージャーのブライアン・エプスタイン(彼は同性愛者で、「ジョン・レノンに愛情を抱いていた為に彼らのマネージャーをかって出た」とする説もある。)や、音楽的に'5人目のビートルズ'と呼ばれる貢献をしたプロデューサーのジョージ・マーティンがいる。 実際には、同プロデューサーも、イン・マイ・ライフ、グッド・デイ・サンシャインの間奏等、かなりの曲でピアノを演奏しているといわれている。

ポール・マッカートニーや外部ドラマーによるドラムの差し替え疑惑も含め、(「スタジオミュージシャン」という名称やステータスのない当時)参加したミュージシャンやプレイヤーについての謎も、未だに多い。

デビュー当初から初期

レコードデビューまでの選択

デビューが決まり、曲を録音するまでの段階で、ジョージ・マーティンは誰を中心のボーカリストにするか悩んだという。というのも、当時は特に
リズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リードボーカリスト&バックコーラス、又は、リードボーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったからである。スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。レコードデビュー以前、主にステージで生計を立てていた時代は、ポールやジョンよりも、むしろジョージが多く歌っていたステージもあったくらいで、非常にマーティンの頭を悩ませていた。最初は、声質やハーモニーパートから、ジョンをリードボーカルとして押し出すつもりであったが、ポールの声質も捨てがたかったという。悩みぬいた末、ジョンとポールの二人のボーカルを押し出す事に決定した。

それが、デビュー後の『「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」等の、ジョンとポール二人で歌っているうちの、どちらがリードボーカルのメロディーなのかわからない曲』や、『「ア・ハード・デイズ・ナイト」などのように1曲の中でソロパートとして、二人が歌い分ける曲のパターン』、『「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように最初はジョンやポールがリードボーカルのパートなのだが、いつの間にかリードパートを歌っている者がハーモニーやバックコーラスに回り、リードボーカルが交代してしまうパターン』、などといった形態が出来上がる結果につながったともいえる。

「シー・ラヴズ・ユー」や「イン・マイ・ライフ」などのように、聞き流すとジョンとポールの2名の声しか聞こえないが、ジョージがしっかりとリードボーカルのパートをサポートしたり、部分的という以上に3部でハーモニーをとっている曲も少なくない。

音楽的貢献

例えば、初期に於ける「襟なしルック(スーツ)」やマッシュルームカットなどといった、ファッション面を除いても、ポピュラー音楽史で当時の彼らが重要な役割を果たしたと思われる事は数え切れないが、あえて音楽面で絞り込むと、彼らの貢献として次の点が挙げられる。

最初に、(音楽面では、米国のリスナーからもやや低く見られていた当時の英国音楽界から、)米国本土に本格的に進出し、チャートにも定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコードデビューの年でもある1964年当初は、ビルボード誌のシングルチャートの1~5位を独占)。

次に、特に中期にさしかかろうとするあたりから、『「イエスタディー」「エリナー・リグビー」でのストリングス、「フォー・ノーワン」でのフレンチホルンなどといったクラシック音楽家の演奏』があり、また、『ジョン作の「ノルウェーの森」で初めてジョージがシタールを導入しはじめ、主として「ラヴ・ユー・トゥー」、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、「ジ・イナー・ライト」など彼の曲で際立っていたインド音楽の楽器演奏』を、サウンドに融合する形で組み込んだこと。(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、「ベイビー・ユー・ア・リッチマン」などといった、ラーガロックへと、レノン&マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、「ゴット・トゥー・ゲット・ユー・イントゥー・マイ・ライフ」では、ブラスセクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。)

第一番目の艱難

ビートルズがまだ世界ツアーをしていた当初、ジョン・レノンが「ビートルズはキリストよりも偉大だ」といった発言により、アメリカ合衆国各地や世界中のキリスト教国に於いて、デモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり、彼らの楽曲のオンエアを控えざるをえなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなったのは有名な話。後に、ジョンが発言撤回をしたり、言い訳めいた説明をしたりした。

来日公演

来日公演は、1966年6月30日から7月2日にかけて5公演が行われた。国内では東京武道館でのステージの様子がTV放映された。同年の6月30日のもので、近年再放送も何度かされ、ビデオ等でも正式発売されているが、翌7月1日公演分の録画は、当時エプスタインが持ち帰ってしまった。ちなみにダークな衣装の方が放映された日、かつ、正式発売日のもので、白っぽい衣装の方が7月1日である。今こそ東京ドーム同様、普通になったが、当時は、「武道館でのロックバンドの演奏反対」という反発意見もかなりあった。 (司会はE.H.エリック、前座として、尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズが舞台に上がった)

ライヴツアーの中止とバンド崩壊の危機

「スタジオ盤では問題ないのに、ステージの録音を聞くと、ハーモニーが上ずってしまい、音感の悪さに気落ちしてしまう」といった主旨のポールの発言もあった。彼らに限らず当時のステージには、「モニター(ステージ上のミュージシャンが、自分達の出している演奏や歌声を聞いてチェックするためのスピーカー)」などはまず設置されていなかったので、やむをえない部分もある。しかも、観客の増加とともに会場は野球場やサッカー・スタジアム、室内でも地区有数の大会場で行うようになり、当時としては、ハードでヘビーなサウンドを大音量で出す上、それでさえも、観客の少女達の大歓声で演奏がかき消されてしまったという。

スタジオ録音作品の際のテクノロジー多用や、サウンドの複雑化によってステージ再現が不可能になったためか、長年のハードスケジュールによる精神的疲弊のためか、1960年代中期ころから台頭してきた、いくつもの演奏重視志向のバンドと比較して、彼ら自身の演奏力がついていけなくなったのを自覚したためか、そのいくつかの理由が重なったためか、その他にも理由があるのかは不明だが、日本公演の終わってまもなくの1966年のアメリカツアー、8月29日のサンフランシスコ、キャンドルスティック・パークのスタージを以って、ライヴ活動を停止する。

その結果、ブライアン・エプスタインのバンドに対する大きな役割・貢献も終えてしまい、翌年、睡眠薬の多用によるものといわれている原因で死亡してしまう。「ライヴツアーをやめてしまい、スタジオワークだけになったビートルズは長続きしない」と主張した評論家や音楽雑誌も多かった。しかし、バンドはさらに続き、名作といわれるアルバムやヒットシングルも断続的にリリースすることとはなるが、(エプスタインの死自体と直接の関係があるのかは不明とはいえ)彼のいなくなった後急に、バンドとしての求心力やメンバー間の結束は目に見えて弱まり、各々の方向性も明確化していき、その他様々な要因も加わり、結局、解散への道へと進む事を促進してしまう結果となる。

アルバム「サージェントペパーズ」の衝撃と後への貢献

ライヴ活動停止後、まもなく録音されはじめて、今までになく長い作業の末リリースされたアルバム、『サージェントペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がリリースされた際には、世界中に戦慄が走った。もちろん、これが4トラック録音を駆使した結果(2台使用したというのが通説)のサウンドで、これほどの作品を作り上げたことは、当時としては非常にショッキングな事で、「4トラック録音機2台のシンクロに成功」とか「10トラック以上のマルチ録音機を完成」などとデマに近い噂も飛んだ。

このアルバムはそれまでの彼らの音楽とは異なっていて、1曲1曲がバラバラといっていいほどまとまりのない広いジャンルに渡る楽曲の集まりであった。これを、「架空のバンドによる、擬似ライヴショー仕立てにする」という設定により、1枚のアルバムとして統一感を持たせるといったアイディアはポールのものであった。「擬似ライヴ仕立て」というのは、ビートルズとしてのライヴを再開したかったポール自身のフラストレーションの表れや他のメンバーへのメッセージだったともいわれている。

実際に、最初の2曲はメドレー形式になっていて、最後に再度バンドのテーマ曲に相当する短い曲(リプライズ)を演奏し、アンコールに相当する曲もその後に配置されている。当初のジョンはほとんど曲を提供しなかったためにポールにせかされた。解散後のインタビューでジョンは「このアルバムはポールのソロアルバム」といったニュアンスに近い発言をしていた。確かに、ポールの曲が半分以上を占めているが、それと逆に、初期の名作アルバム『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』では、大半の曲をジョンがメインとなって作った作品で占められていたので(しかも、駄作がないという)、バンドに於いては、対等なリーダー格のメンバーが二人以上いた場合には特に、その中で特定のメンバーが優位に立つことは珍しいこととはいえない。

「ジャケットに歌詞を印刷する」「ドラムを布などでミュートする」「ベースラインが和音(コード)のルート音に限定せずに、時にはフレーズやメロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言い切れないとしても、あらゆる面で画期的な手法を誰にでもわかる方法で押し出し完成させたといえる。それまで彼らの曲など聞かなかった多くのロックミュージック嫌いの者さえも味方につけてしまった。あるいはファンにしてしまったという現象も起きた。

特に、当時クラシック演奏者からはポップミュージックは低く見られていたので、ロックバンドとクラシック楽器が一緒に演奏するなどということはまずなかった。この貢献やアイディアの元は、おそらく、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きいと思われる。1965年の「イエスタディー」の時は、弦楽四重奏を使用したのが、はじまりではある。が、フルオーケストラとロック系音楽の競演となると事態が異なる。クラシック演奏家にも特に当時はプライドがあり、「成立して10年ほどしかたたない、騒々しい音楽以下の雑音。」、「演奏家とは呼べない、レベルの低いミュージシャン達とは一緒に演奏したくない」と、考えられていたとしても不思議はない。そういった風潮の中、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」などで競演が実現した。こういった点を鑑みると、やはり前述のとおり、クラシックにも精通していてスコアも書けたマーティンの仲介がなければ無理だったであろうし、前述の内容とは矛盾するが、個人的にはクラシック奏者側の中にも、アコースティックナンバーやバラードも増えだしてきたビートルズに対して好感を持つものも増えてきたということかもしれない。

この事がなければ、数年後にディープ・パープルがオーケストラと競演するのは無理であったろうし、ほとんどのプログレッシブロックでも同様であったろう。この事実と貢献については、イエス及び、後にキング・クリムゾンのドラマーでもあったビル・ブラッフォードが、1980年代後半に、インタビューで言及している。

「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ア・ダイアモンド」(日本語ではわかりづらいので、あえて、分かり易く英語で表記すると、[Lucy in the Sky with a Diamond]と、タイトルの名詞の頭文字をつなげると「LSD」となり、内容の難しさや意味のなさや色彩感から、ドラッグソングとして、アメリカやイギリスなどの多くの放送局では放送禁止となった。後にジョンは、「今思うと、歌詞も意味がなくバカげている。タイトルで『LSD』の文字が入ったのは偶然。」と述べていたが、真実は不明。しかし、彼らに限ったことではないとしても、このアルバムはもとより、この前後に作られたビートルズ作品のインスピレーションやアイディアなど多くは(全てではない)、マリファナなども含めた薬物の影響で作られたといってもいい。

そんな中、1967年6月25日(現地)の世界初の衛星中継による、全世界同時テレビ中継「アワー・ワールド(OUR WORLD)」で「ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそすべて)」を演奏したのは有名な話で、表向き、元気な彼らの演奏し歌う姿を、世界中の数億人に披露し、アピールすることとなった。そこには、ローリング・ストーンズのボーカリストミック・ジャガーや、クリームのエリック・クラプトンなど有名著名人らの姿もみられた。なお、この放送はモノクロ放送であったが、当時の様子を写したカラー写真などから、コンピューターによる人工着色がなされた。それが、リアルな彩りであったため、「当時の同放送はカラー中継であった」「モノクロとカラーの二種類の記録フィルムが存在している」などの諸説が流れた。

他、『デビュー前、エプスタインとジョンとの二人きりの何度かの旅行』『(事前の反対者を押し切って)エリザベス女王から授与されたMBE勲章を、政治的抗議の目的で返還する』『ホワイトアルバムレコーディング途中発生した、リンゴの脱退未遂騒動』『「アップルの役員室などに、ポールが何度も女性を連れ込んでいた問題』など、全てを綴ると、ぶ厚い本1冊でも足りなくなってしまうほど、正味わずか8年程度の活動期間にもかかわらず、音楽以外のエピソードといった面でも何かと問題、話題の多いバンドであった。

解散と再結成?

ビートルズについて語る本ではオノ・ヨーコがジョン・レノンをビートルズから引き離した張本人として、悪者扱いされる例がよく見られるが、直接の解散の原因はよくわからない。ジョン自身にとっては、「ビートルズ・ブランド」がデビュー当初に自分達が意図していたものからかけ離れてしまい、バンドの名前だけが一人歩きしてしまっていたことにも原因があったともいえるであろう。加えて、すでに初期の音楽パターンでは時代遅れになってしまったという、音楽的プレッシャーの中で、彼の前にたまたまヨーコが現れ、その後は彼女にまつわる様々なインスピレーションが浮かび、それが、ビートルズの枠を超えてしまった、あるいは、ビートルズ自体を必要としなくなったか、バンド自体に興味を失ってしまう結果となったのかもしれない。後のマネージャーやマネージメントにも恵まれない状態で、「エプスタインの死によって、(バンドを維持するためか、否かは別として)メンバー個人個人が自分の思う道を進んだ結果、逆にバンドとしては方向性を見失ってしまった」という、前述の災難も大きく影響している。

ポールは、ステージ活動を訴えかけたが、ジョージやリンゴは反対、ジョンは、1968年のローリング・ストーンズがホスト役を務めた「ロックンロール・サーカス」や、1969年ロンドンでのユニセフのチャリティコンサートにおいて、エリック・クラプトンなどとライヴ演奏をしている。(ジョン・レノンの個人の項目参照。)

『レット・イット・ビー』の映像も(旧バージョンやTV放映の録画をお持ちの方もいるとは思うが)ジョージの死後、DVD等での再リリースが決定したので、発売を待つなり棚を穿り返すなりして、その様子を見るとバンドの雰囲気がわかるであろう。

ビートルズとしてラストのライヴ演奏となった、「ルーフトップ(アップル社屋屋上)」でのゲリラ的抜き打ちライブはいいとして、彼らのストレスが、演奏のけだるさやバンドへのやる気のなさとなって随所に出ている作品でもある。

ジョージ・マーティンの立会いを既にジョンたちが断り、緩衝材としての役目もすでにリンゴでは重すぎた。ジョージがビリー・プレストンを、エレクトリックピアノ(一部ハモンドオルガン)担当のバックアップメンバーに連れて来ることによって、外部のミュージシャンが側にいると良い子になるジョンやポールの性格を利用した。その結果、さらに演奏の出来もよくなり、バンドの雰囲気を変えるのには、多少以上に役立った。

場所も、トゥイッケナムスタジオから古巣のEMIの地下スタジオに(撮影+演奏・録音)機材やスタッフごと移し、演奏のボルテージは上がってはいったが、「ゴールが解散」と、メンバーたち自身が意識的にでも、無意識的にかでも悟っている状態であり、坂を転げ落ちていくバンドの動きを止めるのは不可能であった。

その後、テスト盤『ゲット・バック』は作られたが、満足のいく出来ではないために音源はオクラ入りとなり、ジョンたちの依頼によりフィル・スペクターが手をかけて『レット・イット・ビー』として完成(つまり、商品化)させるまでに、まる1年以上発売が遅れることとなる。

そういった、リハーサルからルーフトップコンサートの終わった約半年後、ポールがジョージ・マーティンに連絡し、「ビートルズの新しいアルバムを作る」と、協力を申し出てきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「本気で作る気ならば、(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作、完成されたのが『アビー・ロード』である。

「最後に発売された彼らのオリジナル・アルバムが『レット・イット・ビー』」、「ビートルズとして最後に制作(録音)されたのが『アビー・ロード』といわれている」所以がそこにある。なお、『アビー・ロード』の「B面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆に、レコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったといわれている。

ポール自身がアップル問題もからめての脱退訴訟を、他の3人に対し提訴する形で行い、1970年終わりに正式にビートルズ解散となった。その前年にジョンが脱退意思を非公式に表明していたが、この1970年の春にポールはジョンに電話で伝えた上で正式脱退発表を行い、ビートルズとして発表されたアルバム『レット・イット・ビー』にポール自らのファースト・ソロアルバム『マッカートニー』を(他のメンバーの反対を押し切る形で)ぶつける形のリリースとなった後の出来事であった。(ポール・マッカートニー個人の項目参照。)

「何年か後には活動を再開する」という、マネージメント(アラン・クレイン側)の発表も方便である事が露呈した後も、何度か「ビートルズ再結成!?」の記事が新聞や音楽雑誌、TVニュースに数年毎に出てくるが、ついに正式な再結成はなかった。

解散後からビートルズ・アンソロジー

解散後からアンソロジーへの動きや作品については、各メンバーの項目の記事やヒストリー(年表)、後項のディスコグラフィー(別欄として独立)を参考とすること。

(個々のメンバーのページを参照する場合は、ミュージシャン (個人)の欄から検索するか、当項目の前半部の各メンバー名をクリックすること。)

特記

現在、ポールと、ジョージ・マーティンは、ナイトの称号を授与されている。

ディスコグラフィー

フィルモグラフィー

註;共に、
ビートルズの作品のページに移行。




Wikipedia - All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

Tagoror dot com  -  Legal Information  -  Contact us