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タイタニック

タイタニック (Titanic) とは、ギリシャ神話に登場する巨人の神々ティターン(タイタン)から来た言葉であり、巨大剛健無双なものを表現する言葉であった。
ただし現在では、1912年に処女航海の途上で沈没した旅客船タイタニック号のことを指す言葉として知られる。

タイタニック号の遭難

タイタニック号20世紀初頭、イギリスのホワイトスター社が北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船のうちの2番船。姉妹船オリンピック号、ブリタニック号。アイルランドベルファストにあるハーランド・ヴォルフ社で建造された、当時世界最大の客船である。全長264.7メートル、幅27.7メートル、総トン数は46,328トンであった。

ホワイトスター社は、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン競争」と呼ばれるスピード競争 にはあまり関心を示さず、快適な船旅を売り物としていた会社であった。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計されていた。また、安全対策にも力が入れられており、防水区画が設けられていた。船体は喫水線(水面)上までの高さがある防水隔壁で16の区画に区分され、そのうちの2区画(船首部では4区画)に浸水しても沈没しない構造になっており、隔壁は船橋からの遠隔操作で即時閉鎖することができた。そのため「不沈船」として喧伝されていた。実際、タイタニック号の構造は現在から見てもかなり安全なものであるともいわれている。

1912年4月10日イギリスのサウサンプトン港からタイタニック号は処女航海に出航した。E・J・スミス船長以下乗員乗客合わせて2,200人以上を乗せていた。フランスのシェルブール、アイルランドのクイーンズタウンに寄港し、アメリカニューヨーク港に向かった。

順調な航海を続けていたが、4月14日23時40分、北大西洋のニューファウンドランド沖に達したとき、22ノットという高速で航行中のタイタニック号の見張り番が前方450mに高さ20m弱の氷山を発見した。(タイタニック号の高さは、船底から煙突先端までで52.2m。対して、氷山はその10%程度しか水上に姿を現さないことはよく知られる事実である)

同日午前よりたびたび当該海域における流氷群の危険が船舶間の無線通信として警告されていた。しかしこの季節の北大西洋の航海においてはよくあることと見なされてしまい、タイタニック号の通信士たちは他の通信業務に忙殺されていた。

同船は回避行動をとり左へと舵を切ったが、衝突までには40秒とかからなかった。氷山を右舷にかすめ、同船は停船した。 衝撃は船橋では小さく、回避できたかあるいは被害が少ないと思われたが、実際には右舷船首のおよそ90メートルにわたって損傷を生じており、船首の5区画が浸水した。これは防水隔壁の限界を超えるもので、隔壁を乗り越えて次々と水が防水区画から溢れ、船首から船尾に向かって浸水が拡大、同船は船首よりゆっくりと沈没を始めた。

沈没にいたるほどの損傷を受けた原因として、側面をかすめるように氷山に衝突したためとする説もある。もしタイタニック号が氷山に正面から衝突していた場合、浸水した防水区画は狭い範囲にとどまることになり、沈没は免れたかもしれない。また、当時の技術的限界で、船体の鋼鉄が当夜のような低温で特に脆くなる種類だったためとする説もある。

日付が変わった4月15日0時15分遭難信号『CQD』を発信、付近の船舶に救助を求めた。わずか20kmほどの距離に停泊中の貨物船カリフォルニア号があったが、1人しかいない通信士が就寝中で連絡が伝わらなかった。およそ90km離れたところにいた客船カルパチア号が応答し救助に急行したが、現場に到着したのは沈没後の4時であった。 ちなみに、タイタニック号は当時制定されたばかりの新しい救難信号『SOS』を途中から使用し、『SOS』をはじめて発信した船舶となった。

沈没が不可避となったタイタニック号では、1等船客の女性、子供から優先して救命ボートによる避難を行った。 しかし、当時の英商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要が無く(規定では978人分)、またデッキ上の場所を取り、なによりも短時間で沈没するような事態は想定されていなかったために、1178人分のボートしか用意されていなかった。また定員に達しないまま船を離れたボートもあり、結局多くの乗員乗客が船から脱出することが出来ないまま、衝突から2時間30分後の2時20分、ついに沈没した。海に投げ出された人々は、気温、海水温が低かったため、ほとんどが死亡した。

最新の科学技術の粋を集めた新鋭船の大事故は、文明の進歩に楽観的な希望をもっていた当時の欧米社会に大きな衝撃を与えた。犠牲者数は様々の説があるが、イギリス商務省の調査によると1,503人の多きに達し、当時世界最悪の海難事故といわれた。

この事故をきっかけに船舶・航海の安全性確保について、条約の形で国際的に取り決めようという動きがおこった。1914年1月「海上における人命の安全のための国際会議」が行われ、欧米13カ国が参加、

として採択された。また、アメリカでは船舶への無線装置配備の義務付けが強化され、無線通信が普及するきっかけになったとされる。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世

タイタン号とタイタニック号






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