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オスマン帝国は、オスマン朝とも言い、13世紀末のトルコ系小君侯国を起源とし、現在のトルコを中心に西はモロッコから東はアゼルバイジャンに至り、北はウクライナから南はイエメンに至る広大な地域(近東、中東)を支配して20世紀前半まで存続した一大帝国である。

| Table of contents |
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2 歴史 3 制度 4 文化 5 参考文献 6 外部リンク |
かつては「オスマン・トルコ」と表記されることが多かったが、君主(パーディシャー、スルタン)の出自はトルコ系で宮廷の言語もトルコ語ではあったが、支配階層に民族・宗教の枠組を越えて様々な出自の人々を登用しており、単純にトルコ人の国家とは規定しがたいこと、オスマン帝国の内部の人々は滅亡の時まで決して自国は「トルコ帝国」とは称さず「オスマン家の崇高なる国家」などと呼んでいたことなどから、オスマン帝国あるいはオスマン朝と表記すべきであると主張され、「オスマン・トルコ」という表記は使われなくなってきている。なお、現代トルコ語でも「オスマン帝国」にあたるOsmanlı İmparatorluğu や「オスマン朝」にあたるOsmanlı Devleti が一般的な表記である。
オスマン帝国は、オスマン君侯国がアナトリア半島(小アジア)西北部に勢力を確立したとされる1299年を建国年、スルタン制が廃止されてメフメト6世が廃位された1922年を滅亡年とするのが一般的である。実際には、建国宣言をしたわけでもなく、同時代の史料も乏しいため正確な建国年を特定することは難しいし、オスマン帝国の継承国家としてトルコ共和国が成立したのは1923年、カリフ制が廃止されてオスマン家が最終的に追放されたのが1924年であって1922年にオスマン帝国が完全に払拭されたとは言い切れない。
13世紀末にビザンツ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯であったアナトリア西北部にいた、トルコ人の遊牧部族長オスマン・ベイが率いるガージー(ジハードに従事するムスリム(イスラム教徒)の戦士)集団がオスマン帝国の起源であると考えられている。彼らオスマン・ガージー集団は周辺のキリスト教徒・ムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第にビザンツ帝国領を侵食して領土を拡大し、オスマンの子オルハンは1326年にはプロウサ(現在のブルサ)を占領して首都に定めた。オルハンとその子ムラト1世はヨーロッパに進出してバルカン半島にその領土を広げ、14世紀半ばごろアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領して首都を移した。常備歩兵軍イェニチェリが創設されたのもこの頃である。
第4代バヤジット1世(在位1389年-1402年)は、1396年にブルガリア北部におけるニコポリスの戦いでハンガリー王を中心とした十字軍を撃破し、ヨーロッパにオスマン帝国の脅威を見せ付ける。しかし、1402年のアンカラの戦いでは、ティムールに敗れて、バヤジット1世は憤死し、オスマン帝国の拡大は一時停滞した。
空位の時代を経て、1453年、第7代メフメト2世(在位1451年-1481年)は、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼした(コンスタンティノープルの陥落)。コンスタンティノポリスは以後オスマン帝国の首都となり、やがてイスタンブールと呼ばれるようになる。
15世紀末までにバルカンとアナトリアのほぼ全土を平定したオスマン帝国は、第9代スルタンのセリム1世(在位1512年-1520年)のとき、エジプトのマムルーク朝を滅して領域をアラブ人居住地域に拡大した。同時にイスラム教の二大聖地マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)の保護権を掌握し、スンナ派イスラム世界の盟主の地位を獲得した。しかし、このときセリム1世がマムルーク朝の庇護下にあったアッバース朝の末裔からカリフの称号を譲り、スルタン=カリフ制を創設したとする伝説は19世紀の創作で、史実ではない。
第10代スレイマン1世(在位1520年-1566年)のとき、オスマン帝国の領域は東ヨーロッパ、北アフリカに広がった。まずベオグラードを征服してセルビアを完全に征服し、ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを放逐して東地中海を制覇した。1526年にはモハチュの戦いでハンガリーを破り、その大半を占領する。東ではイラクのバグダード、南ではイエメンのアデンを征服した。
前後してハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家のカール5世が皇帝である神聖ローマ帝国(ドイツ)の都ウィーンを1ヶ月以上渡って包囲し、失敗に終わるものの西欧諸国にも強い圧迫を加えた。さらに、1538年プレヴェザの海戦では、無敵と呼ばれたスペインなどの連合艦隊を破り、陸ならず地中海まで、ほぼ全域を支配化に置くことに成功した。
一方で、同盟したフランソワ1世にはカピチュレーション(恩恵的待遇)を与え、好意的な態度には寛容な対応をした。このカピチュレーションは、外国人に対し、オスマン帝国領内での治外法権などを認めるものであった。
しかし、スレイマン1世の時代の後は、徐々に国力が衰え始める。
1571年のレパントの海戦では、スペイン連合艦隊に敗北し、地中海の覇権を失った。しかし、しばしば言われるようにここでオスマン帝国の勢力がヨーロッパ諸国に対して劣勢に転じたわけではなく、依然として強勢で、1573年にはキプロス島をヴェネツィアから割譲させ、翌年にはチュニスを占領した。
しかし、16世紀後半から17世紀前半には無能な皇帝が相継ぎ、かわって母后が専権をふるったため政治が混乱し、新大陸産銀の流入による物価の高騰や常備歩兵軍の拡大による過剰な軍事費が在世を苦しめ、さらにアナトリアで民衆反乱が群発して帝国内は動揺し始める。この危機的状況際して1656年。大宰相(首相)に登用されたキョプリュリュ・メフメト・パシャは全権を掌握して事態を収拾、その死後は息子キョプリュリュ・アフメト・パシャが続いて大宰相となり、二代20年に渡るキョプリュリュ家の執政によってオスマン帝国はウクライナの一部にまで領土を拡大し、最大版図を達成する。
しかしキョプリュリュ・メフメト・パシャの娘婿カラ・ムスタファ・パシャにより1683年に行われた第2次ウィーン包囲は、3ヶ月間に及ぶ戦いの末、救援に襲来したポーランド軍により敗退。その後16年間ヨーロッパ諸国との間で戦われた苦しい戦争の末、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約で領土は初めて削減され、東欧の覇権はハプスブルク家のオーストリアに奪われていった。
しかし、この時期は軍事的衰退が著しい一方で、文化的にはトルコ・イスラム文化が成熟していった。中でもアフメト3世(在位1703年-1730年)の大宰相イブラヒム・パシャ(在任1718年-1730年)の執政時代に対外的には融和政策が取られ、泰平を謳歌する雰囲気の中で西方の文物が取り入れられて文化的最盛期を迎えた。この時代は西欧から逆輸入されたチューリップが装飾として流行したことから、チューリップ時代と呼ばれている。
18世紀末に入ると、ロシアの南下(1774年、キュチュク・カイナルジャ条約によって黒海北岸を喪失)が進む中でオスマン帝国は衰退の一途をたどり、ヨーロッパから「瀕死の病人」と揶揄される惨状を露呈した。セリム3世(在位1789年 - 1807年)は1793年、ヨーロッパの軍制を取り入れた新式陸軍「ニザーム・ジェディード」(新方式の意)を創設するが、イェニチェリの反対により頓挫し、廃位されてしまう。
一方、1798年のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征をきっかけにエジプトの実権を掌握したムハンマド・アリーは、エジプトの近代化を押し進め、1830年反乱を起こしてエジプトの世襲支配権を中央政府に認めさせ、事実上独立した(そのエジプトも、混乱の末に結局はイギリスの統治下に入る)。また、フランス革命から波及した民族独立と解放の機運はバルカンのキリスト教徒諸民族のナショナリズムを呼び覚まし、手始めにギリシャ独立戦争(1821年 - 1829年)によってギリシャが独立。
この動きに対し、マフムト2世(在位1808年-1839年)は旧態依然としたイェニチェリを廃止し、軍の西欧化推進策で立て直しを図り、アブデュメジト1世(在位1839年-1861年)は、改革政治の開始を即位の年に発布したギュルハネ勅令で宣言、行政から軍事、文化に至るまで西欧的体制(近代化)への転向を図るタンジマートを始めた。
19世紀のオスマン帝国にはバルカン半島への勢力拡大を目指すロシアとオーストリア、勢力均衡を狙うイギリスとフランスの思惑が重なり合って紆余曲折を経るが(東方問題)、バルカンの諸民族は次々と独立していき、オスマン帝国の勢力範囲は、事実上ほとんど、アナトリアとアラブ地域だけになってゆく。1853年に始まったロシアとのクリミア戦争は、イギリスなどの加担によって1856年きわどく勝利を収めるが、タンジマートは西欧の経済植民地化をもたらすのみに留まって挫折に終わり、1875年には帝国財政が破産。抜本的な改革を要求された帝国に、アブデュルハミト2世(在位1876年-1909年)のもとで、大宰相ミドハト・パシャによって、「アジア最初の成文憲法」と言われるミドハト憲法が公布された(1876年)。
だが1878年、ロシアとの戦争に完敗しイスタンブール西郊のサン・ステファノまでロシアの進軍を許す。専制体制復活を望むアブデュルハミト2世は、ロシアとはサン・ステファノ条約を結ぶ一方で、非常事態を口実にこの機会に憲法を停止してしまった。これよりアブデュルハミト2世は反動化を強めるが、それに危機感を持つ青年将校や下級官吏らが1889年青年トルコ党(正式名称は「統一と進歩委員会」)を結成した。青年トルコ人たちは、ミドハト憲法の復活を求めて国外や地下組織で立憲運動を展開し、1908年サロニカ(現在のテッサロニキ)で軍とともに蜂起し、無血革命に成功する。彼らは内閣の組織や国会開設など、立憲政治の確立を目指したが、次第に保守化し、民族主義に傾斜していった。
青年トルコ政府は、バルカン半島のスラヴ民族主義拡大の脅威に対抗するため、ドイツに近づき、1914年に始まる第一次世界大戦では同盟国側で参戦。いくつかの重要な防衛線では勝利を収めるが、大勢の劣勢は覆すことができず1918年に降伏し、国土の大半はイギリス、フランスなどの連合国によって占領された。
青年トルコ政府は亡命し、スルタン・メフメト6世(在位1918年-1922年)は、皇帝専制の復活を狙って、帝国各地を占拠する連合軍に従った。さらに、連合国の支援を受けたギリシャ軍がイズミルに上陸、エーゲ海沿岸地域を占拠した。帝国分割の危機に対し、アナトリアに、ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)を指導者として、トルコ人が多数を占める地域(アナトリアとバルカンの一部)の保全を求める運動が起こった。ケマルはアンカラにトルコ大国民議会を組織し、アンカラ政府を築く。
連合国は、1920年、講和条約であるセーブル条約をメフメト6世に押し付けた。この条約は、オスマン帝国領の大半を連合国に分割する内容だったため、ギリシャ軍のアナトリア進攻に正当性を与えたが、かえってトルコ人の更なる抵抗を招いた。ケマルを総司令官とするトルコ軍はアンカラに迫ったギリシャ軍を破り、翌年にはイズミルを奪還して、ギリシャとの間に休戦協定を結んだ。これを見た連合国はセーブル条約の履行を諦め、新しい講和条約の交渉を通告。講和会議に、メフメト6世のオスマン帝国政府とともに、ケマルのアンカラ政府を招請した。
1922年、ケマルは、これを機にアンカラ政府をトルコ国家単独の政府とするべくスルタンとカリフの職権分離と、スルタン制の廃止を議会に決議させた。メフメト6世はマルタへ亡命し、オスマン帝国の帝政は完全に終了、滅亡した。
翌1923年、大国民議会は共和制を宣言し、以降、トルコ共和国として近代化・西欧化を進める。その過程で、スルタン制の廃止後もオスマン家に残されていたカリフの地位も1924年に廃止され、オスマン王権は完全に終焉を迎えた。
ムラト1世の頃から次第に整備されてきたオスマン帝国の制度は、スレイマン1世の時代にほぼ完成し、古典オスマン体制と呼ばれる皇帝専制・中央集権の国家体制に結実した。
軍制は、地方に居住し徴税権を委ねられたティマール制騎兵と、中央の常備軍団カプクル(「門の奴隷」の意)からなり、カプクルの人材はキリスト教徒の子弟を徴集するデヴシルメ制度によって供給された。カプクル軍団の最精鋭である常備歩兵軍イェニチェリは、火器を扱うことから軍事革命の進んだ16世紀に重要性が増し、地方・中央の騎兵を駆逐して巨大な常備軍に発展した。
帝国の領土は直轄州、独立採算州、属国からなる。属国(クリミア、ワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニア、ヒジャーズなど)は君主の任免権をオスマン皇帝が掌握しているのみで原則として自治に委ねられ、独立採算州は州知事(総督)など要職が中央から派遣される他は、現地の有力者に政治が任せられ、州行政の余剰金を中央政府に上納するだけあった。直轄州は州(大軍管区)、県(小軍管区)、郡(法官管区)に分かれ、郡ごとにカーディーが任命されて行政を担当し、県と州にはそれぞれサンジャクベイ(県知事)、ベイレルベイ(州知事)と呼ばれる軍人が任命されて管区内の兵を統括した。
中央では、皇帝を頂点とし、大宰相(サドラザム)以下の宰相(ヴェズィール)がこれを補佐し、彼らと軍人法官(カザスケル)、財務長官(デフテルダル)、国璽尚書(ニシャンジュ)から構成される御前会議(ディーヴァーヌ・ヒュマーユーン)が最高政策決定機関として機能した。17世紀に皇帝が政治の表舞台から退くと、大宰相が皇帝の代理人として全権を掌握するようになり、宮廷内の御前会議から大宰相の公邸である大宰相府(バーブ・アーリー)に政治の中枢は移る。
中央政府の官僚機構は、軍人官僚(カプクル)と、法官官僚(ウラマー)と、書記官僚(キャーティプ)の3つの柱から成り立つ。軍人官僚のうちエリートは宮廷でスルタンに近侍する小姓や太刀持ちなどの役職を経て、イェニチェリの軍団長や県知事・州知事に採用され、キャリアの頂点に中央政府の宰相、大宰相があった。法官官僚は、メドレセ(宗教学校)でイスラム法を修めた者が担い手であり、郡行政を司り裁判を行うカーディーの他、メドレセ教授やムフティーの公職を与えられた。カーディーの頂点が軍人法官(カザスケル)であり、ムフティーの頂点がイスラムに関する事柄に関する帝国の最高権威たる「イスラムの長老」(シェイヒュルイスラーム)である。書記官僚は、書記局内の徒弟教育によって供給され、始めは数も少なく地位も低かったが、17世紀から18世紀に急速に拡大し、行政の要職に就任し宰相に至る者もあらわれるようになる。この他に、宦官を宮廷使役以外にも重用し、宦官出身の州知事や宰相も少なくない点もオスマン帝国の人的多様性を示す特徴と言える。
これらの制度は、タンジマート以来の改革によって次第に西欧を真似た機構に改められていった。
オスマン朝は、神学や哲学のような形而上の学問ではアラブ・イランのものを上回るものはあらわれなかったが、それ以外の分野では数多くの優れた作品を残した。
建築は、モスクなどに現存する優れた作品が多い。17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)が有名。イスタンブールのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的な建築家であるが、アルメニア人の建築も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が名高い。
陶芸は、16~17世紀のイズニク(ローマ時代のニカエア)で、色鮮やかな青色のイズニク・タイルが生産され、モスクや宮殿の壁を飾った。18世紀以降は陶器生産の中心はキュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。
文学は、トルコ語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたオスマン語が生まれ、ディーワン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されいるが、その後は次第に形式化してゆく(トルコ文学の記事も参照)。
美術の分野では、イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画はイラン経由で中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。
音楽はアラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽と、チャルメラ・ラッパや太鼓・ドラムの類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(トルコ音楽の記事も参照)。
オスマン古典音楽の音楽家
オスマン古典音楽で使われる楽器
国名について
歴史
建国と拡大
最盛期
衰退の始まり
「瀕死の病人」の近代化
世界大戦と滅亡
制度
文化
なお、ファーラービー作曲の曲Dusems son pesrev(Makam Rast)などがあるが、それらは作品の様式から見て後代の作。参考文献
外部リンク