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モンゴル帝国

モンゴル帝国(1206-1260?)は、チンギス・ハーンが創設した帝国。モンゴル語ではイェケ=モンゴル=ウルス。その後継者たちは領土を拡大し、東ヨーロッパロシア小アジアメソポタミアペルシャアフガニスタンチベット中国などユーラシア大陸にまたがる史上最大の帝国を創り上げた。
も参照せよ。

Table of contents
1 略史
2 社会制度
3 東西交流と文化
4 軍事制度
5 軍事的失敗

略史

11世紀から12世紀ころ中国を支配していたは、満州に成立した西夏などの遊牧民国家に対して「夷をもって夷を制す」という伝統的な分裂外交策をとって北東アジアに割拠する遊牧民の統一を阻んでいた。モンゴル人は長くこれら遊牧民国家の支配下にあったが、これらが衰退し始めるとモンゴル人にも勢力拡大の好機が訪れた。モンゴルの諸部族は互いに激しい抗争を繰り返しながらも統一への道を歩みだしたのである。

こうした抗争の中でキヤト族長であった父を幼年期に暗殺されたテムジンは、辛酸を嘗めながらも成長すると離散していた一族をまとめ父を暗殺したタタール部に復讐した。さらに有力なケイレト部を屈服させモンゴルを統一すると、1206年、クリルタイに推されてテムジンは大ハーンの地位に就き、チンギス・ハーンと称する。

大ハーン位に就いた後もチンギス・ハーンは積極的に周辺諸国に遠征して、ホラズム王国西夏を滅ぼし南ロシアにまで勢力を伸ばしてモンゴル帝国を成立させた。

1227年、チンギス・ハーンは金への遠征途上で死去するが、その膨張政策はオゴタイ・ハーン、グユク・ハーン、モンケ・ハーンらの大ハーンに引き継がれた。1235年に首都をカラコルムに定め、歴代の大ハーンはそこから指令を出して帝国の経営に当たった。

フビライ・ハーンのとき、1266年、大ハーンの地位を巡って帝国内にハイドゥの乱が起こると、各地に成立していたオゴタイ・ハーン国、チャガタイ・ハン国、キプチャック・ハン国、イル・ハン国の4ハン国はそれぞれ独自の道を歩むようになった。1271年にフビライ・ハーンが を創始するころから分裂がさらに明らかになってモンゴル帝国の統一性は完全に失われた。

14世紀の後半ころになるとそれまで膨張を続けてきたモンゴル勢力は後退を始めたが、チンギス・ハーンの威光は永く中央ユーラシア大陸に残存した。1370年、チンギス・ハーンの後継者を名乗るティムールが王朝を興し、1540年、チンギス・ハーンの血を引くバーブルがインドに侵入してムガール帝国を建設した。1783年にクリミア・ハン国がロシア帝国に併合され、1857年にムガール帝国の滅亡によってチンギス・ハーンの血を引く王朝は消滅した。

社会制度

モンゴル帝国は兵政一致の支配制度を採用し、チンギス・ハーンは千戸長を制度化して末端諸部族を支配した。ジャムチと呼ばれる駅伝制を整え1日100km以上もの速さで、大ハーンの命令を帝国細部にまで行き届かせる事ができた。

統治機構は民族別のピラミッド型をなしており、全人口100万人にすぎないモンゴル人が社会の頂点に立って、圧倒的多数の被支配民族を支配していた。モンゴル人の下には、早い時期からモンゴル帝国の支配下に入った100万人の色目人と呼ばれる中央アジアの人々が徴税などの行政を担当し、その他の被征服民を管理した。モンゴル人はこれら被征服民から税や朝貢の形を取って富を収奪するとともに、 馬丁銀と呼ばれる銀貨を鋳造して帝国内に流通させ経済を活性化させた。

東西交流と文化

辺境に住んでいたモンゴル人は文化が低く見られがちであるが、彼らは平時には商人として活動することもあり、異文化に接する機会も多かったことから排他的で遅れた民族ではなかった。実用的な技術が尊ばれ観念的な学問は無視される傾向が強かったが(例えば儒教など)、歴代の指導者は進取の気性に満ちており、経済や文化の重要性をよく認識していた。

モンゴル帝国の支配の下にパックス・タタリカと呼ばれる平和な時代が続き、文化の交流・学芸の隆盛をみた。モンゴル語を表記する文字としてラマ僧パスパによってパスパ文字が考案され公用文字として使われた。宗教には寛容で、モンゴル人は主にラマ教を信仰したが、被支配者が特定の信仰を強要されることはなかった。

また、シルクロードや草原の道などの通商路が確保されたため東西交流が盛んになり、プラノ・カルピニ、モンテ・コルヴィノ、マルコ・ポーロイブン・バトゥータなどの宗教家、文化人、商人たちがモンゴル帝国を訪れた。

モンゴル帝国が急速に拡大していった原因は占領した都市の商業活動を保護し、現地の支配層を巧みに取り込んでいったことによる。チンギス・ハーンが都市を見て、「破壊し尽くして馬の放牧地にすればよい」と述べたと伝えられているが、モンゴル帝国の現実的な占領政策からはこのような逸話が後世の創作であると分かる。

軍事制度

モンゴルの軍隊は遠征にあたって1人7~8頭の馬を連れて行ったため、乗り換えによって速い移動速度が保たれ、主力の軽装騎兵は1日70kmを走破した。またこれらの馬は肉・鏃・弓の弦などにもなったため補給の心配も少なかった。匈奴やスキタイ以来の戦術である遠巻きの騎射によって白兵戦を避けたので損害は最小限にとどまった。モンゴル軍は征服地の人々を加えて成長していったため兵器も多様で、攻城戦などそれまで経験していなかった戦闘にも対応することができた。

軍規違反には過酷な刑罰が科せられ、革袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏みつぶしたり生きたまま釜ゆでにしたりすることもあった。千戸長が率いる軍団は日常でも共同生活していたため日頃から訓練が行き届いていて、鉄の団結を誇っていた。千戸長は大ハーンの命に従ってこれら強力な軍団を引き連れて遠征に参加したのである。

モンゴル軍は降伏勧告に従わなかった都市を攻略すると指揮官の命令によって、三日間で全ての住民を虐殺し財産を奪い尽くしたという。確かに元寇の際には捕虜の掌に穴を空けて連行したと伝えられており、キエフなどは陥落後10年経っても人間の姿が見られなかったといわれる。しかしこのような逸話には誇張もあると思われ、恐怖のモンゴル軍のイメージは、戦わずして敵を降伏させるために使われた情報戦術のひとつだったと考えられる。

軍事的失敗

軽装騎兵を主体としていたモンゴル軍は平原地帯での戦いで真価を発揮したが、森林地帯、暑熱の砂漠地帯、海上での戦いにはその機動力がいかされなかった。元の時代になると兵の多くが戦意の乏しい被支配民族から構成されることになったため多くの遠征で失敗を招く原因となった。





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