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名前はインターフェースに使用している「ウィキウィキウェブ」と英語で百科事典を意味する「エンサイクロペディア」から合成されたもの。
| Table of contents |
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2 主な特徴 3 プロジェクトの運営形態 4 主要人物 5 歴史 6 先行事例 7 兄弟プロジェクト 8 類似のプロジェクト 9 データベースのダウンロード 10 関連ページ 11 参考資料 |
2001年1月15日に英語版が発足、その後多くの言語へ展開し、2003年8月現在40前後の言語で執筆が行われている。多言語展開に力を入れており、他の言語でも発足の準備が進められている。記事は、英語版で15万件以上、他の諸言語の版で計約15万件の記事が執筆されている。
執筆者は登録ユーザ数ベースで見ると英語版だけで2万人を超える。但し、登録のみで投稿を行わないユーザがいる一方で、ユーザ登録をすることなく執筆に参加することができる仕組みになっているため、正確な執筆者数の把握は難しい。22言語分のデータベース・ファイルを分析したエリック・ザクテ (Erik Zachte) の統計によれば5回以上編集・投稿に携わったユーザの総数はプロジェクト発足以来4000人強とされるが、この統計でも未登録ユーザの活動量が未集計の他、古いバージョンのソフトウェアを用いて活動しているウィキペディアについては分析の対象外としている。
参加者が何らかの編集、投稿を行い、データベースへ保存した回数を参考にすると、同じくザクテのデータから、プロジェクト発足以来、185万回程度の編集、投稿が行われてきたことになる。(これは未登録ユーザによるものも含まれるが、ソフトウェアのバージョンの差から来るデータの欠落がある。)
他の類似のプロジェクトと比較した場合、ウィキペディアには次のような特徴がある。
ウィキペディアは比較的大規模なプロジェクトであり、運営方針や編集・執筆方針などについて多くの議題を抱えてもいる。編集・執筆のレベルでは、多くのユーザに開かれているが、同時にルールが一切存在しないわけではなく、また、そうしたルールを定めるための意思決定が行われないわけでもない。
ウィキペディアは多くの場面で参加者一般を強調し、特定のリーダー、所有者、最終決定権の保持者、などを強調しない傾向にあり、参加者の共同作業、共同自治などを謳うことも多い。
特殊な役割を担った人物として例外的にしばしば言及される者に、ラリー・サンガーとジミー・ウェールズがいる。両者はウィキペディアの創設者であり、ラリー・サンガーはプロジェクトの発足から1年と数ヶ月の間、賃金の支払いを受けた参加者だった。このせいもあって、彼は折に触れてほかのメンバーから仲裁役を頼まれることもあったとされる。また彼は、ウィキペディアに先立って発足した査読制度付のオンライン百科事典作成プロジェクト「ヌーペディア」の編集主幹も勤めた。
ジミー・ウェールズはプロジェクトの出資者であり、発足当初から、サーバやインターネット・トラフィックの料金を支払ってきた。ウィキペディアは彼を「寛大な君主」として戴くコミュニティ自治の集団である、と形容されることがある。記事の中立性の方針など、ごく一部の件については、彼がそれをプロジェクトの重要な方針であると宣言している。また、登録ユーザのアクセス禁止処分の決定についても彼が最終的な判断を下すとしている。
ジミー・ウェールズはインターネット関連会社ボミスの最高経営責任者(CEO)だが、プロジェクトに協力した同社の従業員の中には、他にもティム・シェル(同社の共同創立者)や、プログラマーのジェイソン・リッチー、Toan Vo らがいる。
ウィキペディアの着想は ヌーペディアの主幹編集者ラリー・サンガー (Larry Sanger) とコンピュータ・プログラマ、ベン・コヴィッツ (Ben Kovitz) が2001年1月2日にカリフォルニア州サンディエゴで行った会話に端を発するとされる。
ウィキウィキウェブのインターフェースを積極的に使っていたコヴィッツは当時Ward's Wikiの常連であり、夕食の席でその基本的なコンセプトをサンガーに説明したとされる。サンガーはそれを聞き、ウィキが「よりオープンでよりカジュアルな百科事典を作る」というプロジェクトに相応しいものと考えたという。それに先立つ数ヶ月の間、サンガーと彼の上司、有限会社 Bomis の CEO ジミー・ウェールズ (Jimmy Wales) はヌーペディアをよりオープンな形で補完するプロジェクトについて討議を重ねていた。
サンガーはウィキをヌーペディアに利用しようと考え、ウェールズを説得し、1月10日にはヌーペディアにウィキが登場することになった。
但し、ウィキのウェブページをヌーペディアに利用するという案に対しては、ヌーペディアの執筆者と査読者から強硬な反対意見があったため、「ウィキペディア」と名付けた新たなプロジェクトを立ち上げ、独自のアドレスである wikipedia.com にて1月15日から開始することになった。
ネットワーク帯域と、サンディエゴに設置したサーバはウェールズが資金を提供した。また、2002年1月まで、サンガーは Nupedia の主幹編集員兼ウィキペディアの非公式管理人として Bomis に雇われることになった。(資金の枯渇から、2002年3月にサンガーは辞職した。)
プロジェクトは、参加人員、記事数、編集・投稿総数などいずれの尺度においても増加する傾向にあり、増加のペースも高まる傾向にある。この主な要因として、メディアや多くの人が利用するウェブサイトでの紹介、サーチエンジンへの掲載などが挙げられる。特に顕著なものとして、次のものが挙げられる。
多言語化に乗り出したのは2001年の5月頃であると思われる。当時の発表によれば12前後の非英語版サイトが発足した。(但し、それらの新設ウィキペディアで必ずしもすぐに執筆が盛んになったわけではない。)
2002年12月、姉妹プロジェクトである ウィクショナリー(Wiktionary) が創設された。これは、多言語の辞書とシソーラスを制作することを目標にしているプロジェクトで、ウィキペディアと同じサーバで、同じソフトウェアを使って活動している。現在までに、本や教科書の作成プロジェクトであるウィキブックス(Wikibooks) 、箴言集であるウィキクォート(Wikiquote) なども発足している。
ハードウェアは、発足当初は、Bomisのサーバを間借りする形であった。ソフトウェアは、クリフォード・アダムズによる UseModWiki を用いていた。
2002年1月、英語版と、プロジェクト全体に関わる問題を議論するためのサイトであるメタ・ウィキペディアが実験的にphpとmySQLによるソフトウェアに移行した。これは参加者の一人 Magnus Manske によって制作されたもの。同年7月にがウィキペディア専用のサーバ(コードネーム"pliny")が導入された。これは英語版と、やや遅れてメタペディアのために用いられた。ソフトウェアもリー・ダニエル・クロッカーによる全面的な書き換えを経て新しいヴァージョンが運用され始めた。(同じくPhpとMySQLの組み合わせによるもの)活動が盛んな他言語版も、徐々に専用サーバへ移動していくことになった。2003年1月には、TeXの数学記号が導入された。コードの作成者は参加者の一人Taw 。
2003年5月半ば頃よりもう一台専用のサーバが導入された。コードネームは"larousse"。これは英語版のウェブサーバとして用いられた。(データベース部分は、従来通り専用サーバによって担当される。)Bomisのサーバに間借りしているウィキペディアも、活動が活発になるにつれて徐々にplinyへ移行した。ソフトウェアの処理が効率化され、サーバへの負担が軽くなった時点で、larousseは全言語版のウェブサーバとして稼動する計画もある。
2002年2月、それまで Edgar Enyedy を中心に非常に活発に動いていたスペイン語版ウィキペディアが突然活動の中止と新たなプロジェクトエンサイクロペディア・リブレの立ち上げを宣言した。(Enciclopedia Libreはセビリア大学にあるhttp://enciclopedia.us.es/)。宣言は、離脱の理由として商業広告の危惧とコントロールの欠如を挙げた。10月にはダニエル・メイヤー
エンサイクロペディア・リブレは将来の統合の可能性は残し、交流を維持することを表明し、現在でも統合の可能性が議論されることがあるが、独立したままにとどまっている。この事件は英語版以外のウィキペディアの役割について、大きな議論の火付け役となった。また、これは非英語版のウィキペディア・コミュニティの要求によるいくつかの変更にもつながった。
また、プロジェクトはたびたび、記事を削除したり、不適切な内容を投稿したりする荒らしに見舞われた。通常、そういった荒らしによる荒らし行為は参加者達により速やかに修復されるため、一般には大きな問題とされることは少ない。だが、英語版ではメインページのいたずら書きが何回も発生したため、メインページはアドミニストレータのみが更新できるよう保護措置がとられた。
2002年3月、「24」というユーザー(この名前は彼のインターネットアドレスにちなむ)が、特別に左傾的かつ物議を醸す編集をし始めた。白熱した議論は、何人かに「恐怖」とまで言わしめるようなものになり、多くの人々が侮辱と個人攻撃を受けた。メーリングリストでの長期間にわたる話し合いの結果、2002年4月、ジンボ・ウェールズは24をサイトから規制した。ドイツの歴史に関して右傾的で物議を醸す編集を再三に渡って行い、ウィキペディアの歴史関連の執筆者達の多くに抗議を受けた「Helga」は、再びメーリングリストにおいて話し合いが行われた結果、2002年9月に規制された。
2002年8月、ジンボ・ウェールズがウィキペディアでは今後一切商業広告を行わないという方針を発表し、そのすぐ後にウィキペディアのURLはwikipedia.comからwikipedia.orgに変更された。
2003年6月20日、プロジェクトに法人格を与えるべく、Wikimedia Foundationが設立された旨がアナウンスされた。[1] ウィキメディア・ファウンデーションはフロリダを本拠地とする非営利法人である。
より詳しい歴史は、w:Wikipedia Announcementsのページやメーリングリストのアーカイブ、m:History of Wikipediaを参照せよ。
百科事典をより使いやすくするために、印刷物の代わりに機械的な仕掛けを使おうという考え方のはじまりは、H・G・ウェルズの短編小説世界の頭脳(1937年)やバーニバー・ブッシュのマイクロフィルムを使った未来のシステムMemex(論文"As We May Think"(1945年))に見ることができる。
インターネットを使ってフリーな百科事典を作ろうという考えは1990年代の初めには登場している。そのひとつとして、古い印刷物の百科事典をデジタル化しようというプロジェクトが挙げられる。1995年の1月、プロジェクト・グーテンベルクは1911年に出版されたブリタニカ百科事典の 11 版を ASCII テキストにするという活動を開始した。しかし、第一巻をデジタル化したあと、方針の不一致から活動は中断した。2002年に、28 巻全ての ASCII テキストは他から http://1911encyclopedia.org/ で公開された。同様の試みとして、Easton's Bible Dictionary (1897) がChristian Classics Ethereal Library においてデジタル化されている。
他の、よりウィキペディアに近い活動として、自発的な参加によって新しくフリーな情報源を作り上げようというものがある。1991年、usenet の alt.fan.douglas-adams ニュースグループの参加者達がダグラス・アダムスの著作の中に登場する架空の百科事典The Hitchhiker's Guide to the Galaxy を実際に作ろうと活動を開始し、これはいわゆる Project Galactic Guide へと発展した。このプロジェクトは当初は現実の物事だけを記載するようにしていたが、後に空想上の事柄なども収録するようになった。Project Galactic Guide は 1,700 以上の記事を保有しているが、2000年以降記事の追加は停止状態にある。
1993年には、インターペディアと呼ばれる計画が議論された。これはインターネット上に、誰もが参加できる百科事典を作ろうとするものであった。これは、ウェブの爆発的な成長と、精度の高いサーチエンジンの登場のため、実行に移されないままに終わった。
ウィキペディアと比較されるものには、以下のような共同作業プロジェクトがある。
ウィキペディアで公開されている記事を何かの目的でウィキペディア以外の場所で利用したい場合にはどのような目的であれ、GFDL の条件に則っているならいつでも全ての記事を収録した最新版をデータベースからダウンロードすることができる。
活動の規模
主な特徴
プロジェクトの運営形態
主要人物
歴史
発足の経緯
拡大とその要因
ソフトウェア及びハードウェア
分裂、論争
非営利化と非営利法人化
先行事例
兄弟プロジェクト
ウィキペディアは次の兄弟プロジェクトを持っています。
類似のプロジェクト
データベースのダウンロード
関連ページ
参考資料