貧農の子から皇帝まで登り詰め、西ローマ帝国の故地を再征服してローマ帝国を復興させた。 また古代ローマ法の集大成であるローマ法大全を編纂させたことでも知られ、その功績から後世大帝と呼ばれた。 しかし、一方では相次ぐ戦争や建築事業による国家財政の破綻と国土の疲弊、それに伴う東ローマ帝国の衰退という大きな負の遺産も残した。
ユスティニアヌス1世の生涯 482年頃-バルカン半島のダルダニア州(現在のマケドニア辺り)で貧しい農民の子として産まれる。元の名前はフラヴィウス・ペトルス・サバティウス。 507年頃-軍人だった叔父ユスティヌスによって首都コンスタンティノポリスへ呼ばれ、叔父の養子となってユスティニアヌスと改名。高等教育を受ける。 518年に叔父が元老院の指名によって皇帝ユスティヌス1世(在位:518-527)として即位するとユスティニアヌスも重要な側近として登用され、中央軍司令官、コンスル(執政官)、カエサル(副皇帝)などの要職を歴任。 525年-首都の劇場の踊り子だったテオドラと結婚する。 527年-叔父の死によって皇帝に即位。 529年-古代からの異教の弾圧。アテネのアカデメイアを閉鎖し、学者を追放。 530年-古代ローマ法の集大成であるローマ法大全編纂を命じる(533年完成)。 532年1月-増税などに不満を持つ首都市民の反乱「ニカの乱」によって退位寸前まで追いこまれたが、皇后テオドラの励ましによって武力鎮圧し、皇帝による専制支配を固めた。このとき3万人の市民が殺害されたという。 532年6月 - ササン朝ペルシャとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させる。 533年-名将ベリサリウスに北アフリカのゲルマン人国家、ヴァンダル王国を征服させる。 535年-イタリアのゲルマン人国家東ゴート王国の征服に着手。しかし東ゴート側の抵抗はすさまじく、554年までかかってようやくイタリアを征服。しかし、長い戦いでイタリアは荒廃。ローマ市の人口は、たった500人にまで激減してしまったとも言われている。 537年-ニカの乱で焼失した聖ソフィア大聖堂の再建が完成(現在のアヤ・ソフィア博物館)。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることに。 540年-ササン朝との戦闘再開。帝国の東西に敵を抱えることになる。 554年-イベリア半島の西ゴート王国から、東南部の領土を奪回。地中海全域のローマ帝国による支配を回復。 565年-83歳で子を残さずに死去。晩年のユスティニアヌスは軍隊を軽視し、侵入する異民族に対しては金で紛争を解決しようとしたため、軍隊が弱体化し国家財政も破綻。彼の死後、北方からの異民族の侵入やササン朝の攻撃を受け東ローマ帝国は急速に衰退してしまった。 関連項目 東ローマ帝国 ローマ皇帝一覧 法学 私法 民法