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スコットランド史

これは、スコットランド史の概略である。

スコットランド建国以前

紀元前1000年ごろ(紀元前700年ごろとも言われる)、ピクト人(ケルト系)と呼ばれる人々が大陸からわたってきて、この地に住み着いた。

紀元1世紀ごろよりブリタニア(現在のグレートブリテン島)に侵入してきたローマ人であったが、その北部であるカレドニアと呼ばれたこの地を完全に制圧することはできなかった。

395年、ローマ人がブリタニアを放棄したころには、ピクト人に加えて、アイルランドよりカレドニア南西部に移住したスコット人(ケルト系)、ブリタニア北部よりカレドニア南西部に住み着いたブリトン人(ケルト系)、デンマークあたりよりカレドニア南部にやって来たアングル人(ゲルマン系)の4つの種族が勢力を伸ばしていた。

スコットランド王国の建国

スコット人の王朝

4民族の抗争の中、9世紀ごろまでにキリスト教の普及とともにスコット人はピクト人との融合を深めていった。

846年、スコット人のダルリアダ王国(ダルニアダ王国)のケネス・マカルピン(ケネス1世)は、ピクト人のオールバ王国を破り、スコット人・ピクト人の連合王国(ピクト人の王国の名を継承し、オールバ王国と呼ばれた)をうち立てる(アルピン朝)。ケネス1世は、西部のダンスタフニッジ(Dunstaffnage)からピクト人の本拠スクーン(Scone)に首都を移した。また、歴代のダルリアダ王が戴冠の座として用いてきた「運命の石」を新首都スクーンに移した。以後、歴代の王はこの石の上で戴冠式を行うことになり、スクーンの石と呼ばれることになる。

1018年マルカム2世はアングル人を平定し、また孫のダンカン(後のダンカン1世)をブリトン王の継承者につけることに成功した。このころより、スコット人(Scoti)の名を取ってスコウシア(Scotia)王国と呼ばれるようになる。

マクベスとアサル朝

1034年、マルカム2世の長女ベソックとアサル領主でダンケルドの大修道院長クリナンの子ダンカン1世が、祖父の後継者として王位についた。彼の王朝はアサル朝と呼ばれる。ダンカン1世はブリトン人のストラスクライド王国の王位をも継承した。こうして、現在のスコットランドの領域をほぼ手中にした。1040年、ダンカン2世は、従兄弟のマクベスに殺害され、王位を奪われた。

マクベスは1045年にダンカン1世の父クリナンを敗死させた。また、ロッハバーの領主でアルピン王家の血を引くバンクゥオを1043年に殺害した。バンクゥオの長男フリーアンスはウェールズに逃れた。(フリーアンスは、4年後にウェールズで処刑されたが、長男ウォルターはマルカム3世にロード・ハイ・ステュワードという要職に登用され、後のステュアート朝の始祖となる。)マクベスは力の政治を押し進めたが、彼の1050年にはローマ巡礼を果たすなど、統治能力は優れたものであった。

1057年、ダンカン1世の子マルカム・カンモーは、2度の戦いの末にマクベスを打ち倒す。しかし王位についたのは、マクベスの継子ルーラッハであった。マルカム・カンモーは4ヶ月後にルーラッハを殺害し、マルカム3世として即位した。

1066年、隣のイングランドではノルマンディー公ギョーム(ウィリアム1世)がイングランドを制圧する。最後のサクソン王ハロルド2世の後継者エドガー・アシリングと妹マーガレットが逃亡の途中で遭難し、スコットランド東岸に打ち上げられた。イーガボーグをすでに失っていたマルカム3世は、マーガレットと再婚した。(彼女との娘マティルダは、後にイングランド王ヘンリー1世の后となり、マティルダ(女帝モード)を生む。)彼女の影響を受け、宮廷様式はサクソン化し、宮廷内ではサクソン語が用いられるようになった。また、教会制度もケルト式からローマ式と変わっていった。

1093年のマルカム3世の死後、息子のダンカン2世と弟ドナルド3世と王位争いの後、ダンカン2世の弟のエドガーアレグザンダー1世が王位を継承したが、いずれも跡継ぎがいなかったため、1124年に末弟のデイヴィッド1世が王となった。

王国としての態勢が整う

デイヴィッド1世は、兄たちと同様イングランドの宮廷で育ち教育を受けた。王位につくと、イングランドより優秀な人材を招いて要職につけた。こうして、行政、軍事、教会の体制を整えていった。

1136年には、イングランドのスティーブンマティルダの内戦をついて、カーライル、ニューカースルを占領した。1138年、スタンダードでスティーブンに敗れ、いったんはカーライル、ニューカースルを放棄したが、1140年に結ばれたスティーブンとマティルダの和議の結果、ノーサンバーランド、カンバーランドなどの支配権を獲得した。また、このときにイングランドより得たカーライルの貨幣鋳造所により、スコットランドで初めてコインを鋳造した。

デイヴィッド1世の時代は産業の発展、信仰の普及などによって民生が向上した。また、英語が共通語として普及していった。

1153年に孫のマルカム4世が11歳で即位した。これを待っていたかのように、北部ハイランド地方では豪族たちが反乱を起こした。また、イングランド王ヘンリー2世には、デイヴィッド1世が獲得したノーサンバーランド、カンバーランドを奪い返された。成長したマルカム4世は、北方を制圧したが、1165年にわずか23歳でこの世を去った。

マルカム4世が未婚で子がなかったため、弟がウィリアム1世として王位についた。彼の当面の目標は、北部イングランドの支配権の奪還であった。1168年にフランス王ルイ7世と秘密同盟を結び、さらにイングランド国内の内紛に便乗し、ヘンリー2世の三男リチャード(後のリチャード3世)や弟のジョン(後のジョン王)と結んで、1174年にノーサンバーランドに攻め込んだ。しかし、ウィリアム1世は、ヘンリー2世軍に敗れ捕らえられた。そして、スコットランドはイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど、屈辱的な講話(ファレーズ協定)を結ばされた。

1189年にイングランド王となったリチャード1世(獅子心王)は、十字軍に熱意を燃やし、その資金源としてスコットランドとの臣従関係を金銭で解除することにした。スコットランドは1万マークをイングランドに支払い、臣従関係解除の協定が結ばれた。また、1199年には北部のマリ地方やケイスネス、サザーランドも国王の支配下に入った。1214年、ウィリアム1世は死去した。49年間の在位であった。

なお、彼はスコットランド国王として初めて紋章にライオンを用いたため、獅子王と呼ばれることになった。

王国の混乱

アサル王家の終焉

1214年に16歳で王位についたアレグザンダー2世は、イングランド王ヘンリー3世の妹と結婚し、1236年にはヨーク条約を結んで、イングランドとの国境を確定した。1249年、ノルウェーからのヘブリデス諸島の奪還を目指して進軍中に死去した。8歳のアレグザンダー3世が跡を継いだ。

1255年、アレグザンダー3世は親政に乗り出し、摂政のジョン・ベイリャルらを追放した。また、イングランドの内紛には中立を保ち、内政の安定を保った。そうして、兼ねてからの懸案だったノルウェー軍の駆逐に乗り出すことになった。

1261年にヘブリデス諸島の奪還に成功し、1263年には西部のクライド湾でノルウェー王ホーコン4世をうち破った。3年後のノルウェーとの平和条約で、ヘブリデス諸島は正式にスコットランド領となった。1286年、アレグザンダー3世は、嫡子のいないまま、この世を去った。

長老・重臣たちが次の王として選んだのは、ノルウェー王エリク・マグヌースンに嫁いでいた、アレグザンダー3世の長女マーガレットの娘マルグレーテであった。3歳の彼女はスコットランド初の女王マーガレットとして即位したが、ノルウェーの王宮にとどまったままだった。

スコットランド併合の野心を持つイングランド王エドワード1世は三男で皇太子のエドワード(後のエドワード2世)とマーガレットとの結婚を強要した。1289年に結婚のため、ノルウェーを発ったマーガレットたちの船は途中大時化にあい、9月26日にオークニ島にたどり着いたところでマーガレットは息を引き取った。わずか7歳であった。そして、これはアサル王家の終焉を意味した。

王位継承者たちの争いとイングランドによる統治

アサル王家が絶えてから、13人の王位継承者たちの争いが始まった。スコットランドへの介入をねらっていたエドワード1世は、1291年5月に両国国境近くのノーラムで王位継承者・領主たちを集め、ジョン・ベイリャルの王位継承に同意するよう迫った。エドワード1世にとって、ジョン・ベイリャルは御しやすい人物と思われたからであった。翌1292年11月17日、ベリクで再びエドワード1世による裁定が行われ、正式にジョン・ベイリャルが王位についた。このとき、イングランドに対して屈辱的な臣従を誓わされた。

ジョン・ベイリャルはしばらくの間、エドワード1世の様々な要求に従っていたが、1294年にフランスへの兵員動員を拒否し、フランス王フィリップ4世と同盟(いわゆる古い同盟)を結んだ。1296年4月、ジョン・ベイリャルはイングランドへの臣従の拒否を宣言し、イングランド北部へ侵攻した。しかし、このときを待っていたエドワード1世にダンバーで大敗した。ジョン・ベイリャルは一旦は逃れたものの、10月にストロカスロで降伏して、王冠を捨てた。ジョンは長男のエドワードとともにロンドンへ送られ、3年間幽閉された。エドワード1世は、「スクーンの石」を奪い、スコットランドは総督ジョン・ド・ワーレンをおいて統治することにした。この後、スコットランドの王座は1306年までの10年間、空位となった。

1297年5月、イングランド兵とのトラブルに巻き込まれたウィリアム・ウォリスは、イングランド人の州長官を殺害。民衆は、彼を支持して、大反乱となった。9月には、ウォレス軍は、スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を徹底的に破った。しかし、1298年のフォールカークの戦いでイングランド軍に大敗。ウォリスは、その後7年間にわたってゲリラ戦を行ってイングランドに抵抗したが、1305年に捕らえられ八つ裂きの刑に処せられた。ウィリアム・ウォリスは、愛国者としてたたえられている。

イングランドからの独立

ウォリス以外にもイングランドに抵抗するものが続々と現れたが、彼らには連携が欠けていた。その中の一人が、マーガレット女王死後の王位継承に名乗りを上げた13人のうちの一人の孫、ロバート・ド・ブルース(ロバート1世)であった。彼は、ウィリアム・ウォリスに協力しなかったばかりか、1306年2月に別の反乱軍の首領でライバルのジョン・カミンを教会内で殺害し、教皇クレメンス5世に破門される始末であった。

ロバートは、同年3月25日に戴冠式を強行し王位についたが、6月26日には討伐軍を起こしたエドワード1世に大敗し、主な協力者は処刑され、ロバート自身もノルウェーにまで逃れた。1年後の1307年3月、ロバートの右腕ジェームズ・ダグラスがダグラス城を攻撃してイングランド軍を破ってから、各地で連勝を重ねていった。

エドワード1世は病をおして出陣したが、カーライル近くで死去した。後継者のエドワード2世は進軍を中止してロンドンに戻り、軍事は部下に任せきりであった。また、重臣たちも二派に分かれて抗争する有様だった。こうした中、ロバート軍は各地でイングランド軍を破り、勢力圏を広めていった。1314年6月、ようやく自ら大軍を率いたエドワード2世だが、バノックバーンでロバート軍に大敗した。1318年には、すべてのイングランド兵がスコットランドから駆逐された。1323年には、教皇ヨハネス22世はロバート1世の破門を解き、スコットランド王として承認した。

イングランド王エドワード3世の母イザベルの申し入れで、1328年に彼女の次女ジョアンとロバートの長男デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)との結婚が行われ、両国の平和条約が結ばれた。その翌年、ロバート1世はカードゥロスで亡くなった。

デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャル

ロバート1世の死後、長男デイヴィッドがデイヴィッド2世として、わずか5歳で王位を継承した。これに対し親イングランドの貴族たちは、1332年8月にジョン・ベイリャルの長男エドワードを担いで反乱を起こした。イングランド王エドワード3世の支援を受けた反乱軍は、スコットランド王軍をダップリング・ムアで破り、エドワード・ベイリャルがスコットランド王として戴冠した。

エドワード3世の後押しで王座についたエドワードは、イングランド王に臣従を誓い、南部諸州を割譲した。これに怒ったジェームズ・ダグラスの弟アーチボルト・ダグラスは、12月反乱を起こし、アナンでエドワード・ベイリャルを破った。エドワード・ベイリャルは、イングランドに逃走した。しかし、翌年にはアーチボルトは、ハリダン・ヒルでエドワード3世に敗れ、戦死した。これを見たデイヴィッド2世は、翌1334年に王妃とともにフランスに逃れた。こうして、スコットランドには、デイヴィッドとエドワードという2人の王がいるにもかかわらず、国内には王が不在という異常な事態となった。王が不在の間、ロバート・ステュアートが摂政として王国を守ることになった。

1337年、イングランドとフランスの間に百年戦争が起こった。フランス王フィリップ6世は、イングランドを北から牽制する目的でデイヴィッド2世のスコットランド帰国を後押しした。1341年帰国したデイヴィッド2世は、フィリップ2世の要請に応えて、1346年10月、イングランド侵攻の軍を起こした。しかし、ネヴィルズ・クロスで大敗し、デイヴィッド2世は囚われの身となってしまった。再びロバート・ステュアートが摂政となった。

エドワード3世は、エドワード・ベイリャルより彼の年金と引き替えにスコットランドの割譲させる一方で、デイヴィッド2世には以後の王位をエドワード3世またはその嗣子に限るという約束を取り付けようとした。しかし、スコットランド国内では、これに反発し、結局は10万マークを10年の分割払いという身代金で、1357年10月にデイヴィッド2世は釈放された。しかし、デイヴィッドはイングランドのでの生活を懐かしがり、1367年にロンドンに帰り、スコットランド王位をエドワード3世に継承する約束に応じた。これに対して、スコットランド議会は身代金を払い続けることで対抗した。しかし、度重なる侵攻と内覧、身代金支払いのための重税、加えて1349年からペストが蔓延して、スコットランドは疲弊の極にあった。こうした中、跡継ぎのないまま、1371年にデイヴィッド2世は死去した。エドワード・ベイリャルも独身のまま死去しており、二つの王家が幕を閉じることになった。

ステュアート朝のスコットランド

ステュアート王家の成立

1371年、デイヴィッド2世の摂政の地位にあったロバート・ステュアートがロバート2世として55歳で王位を継承した。ステュアート王家の成立である。

エドワード3世の死去により、デイヴィッド2世に対する身代金の支払いは終わったが、スコットランド王室の財政を著しく疲弊させた。さらに、イングランドとの和平は終わり、貴族同士の抗争も絶えなかった。

1390年、ロバート2世の死去により長男のジョンがロバート3世として王位についた。ロバート3世は惰弱な性質であった。また、即位前に負った傷が元で、しばらくは弟のロバートが政務を執った。ロバート3世は気が弱く、無能に近かった。三弟アレグザンダーが悪行の限りを尽くしても、ロバート3世は何もできなかった。

1398年、ロバート3世は弟ロバートの国王代理役を解き、親政に乗り出した。そして、長男デイヴィッドを王国総監に任命するとともにスコットランドで初めての公爵位であるロスシー公に叙爵した。また、弟ロバートの不満をなだめるため、アルバニー公に叙爵した。ところが、デイヴィッドは数々の不行跡を行いアルバニー公の館に監禁され、翌年になくなった。このことが、ロバート3世のアルバニー公に対する疑惑を深めることになった。そこで、残った嫡子である三男のジェームズ(次男は早世)をフランス王に預けアルバニー公から守ろうとした。ところが、1406年3月ごろ、ジェームズを船に乗せフランスに向かったが、途中でイングランド側に逮捕され、ヘンリー4世の元に抑留されてしまった。これを聞いたロバート3世は、病を発しまもなく他界した。

1406年4月、ジェームズがジェームズ1世として即位したものの、身柄はイングランドにあった。アルバニー公ロバートが摂政に選ばれ、政務を執ることになった。アルバニー公はジェームズ1世の釈放を要求しなかったため、国王不在の状態が18年も続くことになった。

国王不在の中、貴族たちは王の所領の収入を横領するなど、横暴を極めた。しかし、アルバニー公は貴族たちと争わず、議会を開いて事を決める方針を採った。増税を行わなかったため、王室の財政は苦しくなったが、都市も以前の活気を取り戻した。また、セント・アンドリューズ大学を創設するなど、文化・教育にも力を尽くした。1420年9月3日、アルバニー公ロバートは80歳で亡くなり、長男マードックが摂政となった。

ジェームズ1世

1422年、イングランドではヘンリー5世が亡くなり、生後9ヶ月のヘンリー6世が即位した。幼い王をめぐって、貴族同士の争いが激しくなった。また、フランスでの戦争の旗色が良くなかったため、フランスとの同盟関係にあったスコットランドに対して、フランスからスコットランド軍を撤退させることを条件にジェームズ1世を釈放することにした。

1424年5月、ジェームズ1世はスコットランドに帰国し、戴冠を済ませた。帰国早々、ジェームズは議会を開き、国内における法の支配、王に反逆するものへの徹底的な追及などを定めた条例を制定した。そして、貴族たちへの徹底的な弾圧に乗り出した。

国王の不在中に摂政を勤めたアルバニー公マードックに対しては、王家の収入に対する貴族たちの横領を放置し王権を壟断したとして、二人の子ともに処刑した。さらに、マーチ、ファイフ、マー、ロス、レノックスなど各地の伯領を没収した。また、ハイランドの豪族たちを騙し討ちにして、投獄・処刑した。

ジェームズの政策は強引ではあったが、法の下に平和と公正が保証され、国民の生活水準も上がっていった。しかし、新しい艦隊の建造や大砲の購入などの国防政策、教会へのオルガン購入や長女マーガレットの結婚式といった私事などにも税金が投入され、増税を行った。こうして、ジェームズ1世に対する不満が貴族・国民の間に広がっていった。

1437年、ジェームズ1世は、パースの修道院に泊まっていたところをロバート・グレアムら3人の貴族に襲われ、殺害された。

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