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この戦争は、数次に渡る中東戦争、湾岸戦争などと並んで中東地域の不安定さを示す材料であるとされる。中東における不安定要因は、イスラエルとイスラム諸国の対立という図式で考えられることも多いが、この戦争はイスラム教国同士の対立になっているという特徴がある。
| Table of contents |
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2 戦争の経緯 3 関連諸国の動き 4 帰結 5 参考サイト |
両国の石油輸出にとって要所であるシャトル・アラブ川の使用権をめぐる紛争は、戦争以前にも長年の間、衝突の原因だった。シャトル・アラブ川はペルシャ湾に注ぎ込むチグリス・ユーフラテス川の下流域で、両国の国境にあたる。
同河川沿いの都市バスラはイラク第二の都市で、石油積み出し場として重要な港でもあった。
イランでは1979年にシーア派による革命があり、国内の混乱が増し、軍事系統にも乱れがあると見られた。これは敵対する周辺国にとっては好機である。同時に、ホメイニーの指導下、イランは周辺のアラブ諸国とは異なる政治体制「イスラム共和制」を敷き、君主制中心の周辺アラブ諸国の警戒感を強めた。
一方イラクではサッダーム・フセインが政権を掌握し、独裁を行って軍備を強化していった。
イランはペルシア系、イラクはアラブ系の国家である、という民族的な次元をこの戦争の背景に見る者もある。またイラクの政権がスンナ派主導で、イランがシーア派のイスラム政権と宗派が異なることも、戦争の一因となったとされる。
初戦、イラクの奇襲攻撃によってイランは西部の多くの領土を失ったが、1982年6月のイランの反撃により、イラン側はそれまでにイラク軍によって占領された領土を回復することに成功し、イランの勝利もありうると考えたイラク側が休戦を持ちかけるきっかけとなった。
だが、イランはイラクの体制打倒に固執し、更に6年間の戦争が続くことになった。日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。
近代装備で勝るイラクに対し、イランは人海戦術で応じたため、大量の死者を出した。
イラン・イラク戦争ではタブンを含む化学兵器がイラクによって使用されたが、いずれも散発であったため、戦況にはほとんど影響しなかった。
ソビエト連邦及びアラブ諸国は、イラクを支持した。前者は中東地方に同盟国を作る必要から、後者はイラン革命の輸出を恐れたからである。
アメリカは、イラクに対する武器の輸出や経済援助などを行ったが、人質の開放をめぐる取引の一環として、ある時期からはイランに対しても武器輸出を行たとされる。(イラン・コントラ事件)
両国の犠牲者は100万人程度と推定され、経済的な被害も大きい。
一説では、この戦争を通じてイラクがクウェートに対して抱え込んだ負債を帳消しにすることが、イラクによるクウェート侵攻の目的のひとつであったとされる。
Shatt al-Arab, Wikipedia, http://www.wikipedia.org/wiki/Shatt_al-Arab (英語)
(2003年3月18日閲覧)
龍谷大学 坂井定雄 2002年度中東政治論 5 中東の国家と戦争・革命
http://www.law.ryukoku.ac.jp/~sakai/chuto/chuto5.html (2003年3月18日閲覧)
戦争勃発までの経緯
戦争の経緯
関連諸国の動き
帰結
参考サイト