|
|
エドモンド・ハリー(Edmond あるいは Edmund Halley, 1656年10月29日 - 1742年1月14日)はイギリスの天文学者、地球物理学者、数学者、気象学者、物理学者。
※日本語表記の場合、姓を"ハリー"とするものと"ハレー"とするものが混在する。最も有名な功績である周回する彗星の名称としては"ハレー彗星"が一般的なことから、ここでは便宜的に"ハレー"と統一して表記する。
| Table of contents |
|
2 家族と友好関係 3 金星の日面通過と距離の測定 |
主な業績
ハレーはロンドンのハッガーストンに裕福な石鹸製造業者の子供として生まれた。聖パウロ学校で学び、1673年にオックスフォード大学に入学しクイーンズカレッジで学ぶ。在学中に太陽系と太陽黒点に関する論文を発表している。
1676年にオックスフォード大学を卒業し、南半球の星座を研究するため南大西洋のセントヘレナを訪れ、1678年の11月まで観測を行った。イギリスに戻り翌1679年に Catalogus Stellarum Australium 『南半球の星座目録』(意訳、定訳あれば変更を)を発表する。これには341個の構成についての詳細が記録されている。これらはティコ・ブラーエの観測記録と照らし合わせ、星図に追加された。
1698年に広範囲の恒常性地磁気の観測をするため、イングランド海軍の大佐に任命された。この調査で2年をかけて大西洋の北緯52度から南緯52度までを航海して観測を行った。その結果は General Chart of the Variation of the Compass(1701年)に発表している。これは初めて出版された地磁気のグラフであり、また、ハレーの線と呼ばれる等偏角線上に描かれたものであった。
1703年にオックスフォード大学の幾何学の教授となり、1705年にハレー彗星についての予言を記した Synopsis Astronomia Cometicae を発表する。これは1682年にハレー自身が観測した彗星と、ケプラーなどが観測した彗星の軌道の比較を行ったものである。これより1456年、1531年、1607年、1682年に現れた彗星は同一の天体であり、76年周期で太陽系を周回している彗星と結論づけた。さらに次に観測できるのは1758年であると予言し、ハレー自身はそれを待つことなく亡くなったが、予言通り彗星は発見された。ハレー彗星は、惑星以外で太陽系を周回する天体がはじめて確認された例でもあった。
1716年に金星の日面通過の際に観測地点によりその開始時刻、終了時刻が異なることを用いて天文単位の絶対値を求めることができることを指摘。金星の日面通過そのものは1639年に観測されていたが、その重要性に気がついたのは彼の功績である。なお、この現象もその後彼の生存中には起こらず、実際に観測が行われたのは1761年および1769年のことであった。
1718年にはギリシャの観測記録と自分での観測記録の比較を行い、恒星の固有運動があることを発見した。
1720年にジョン・フラムスチードの跡を継いで王立天文台の天文台長となり、死ぬまでその職に就いて月の研究を行った。彼はロンドン南東のリーにある聖マーガレット教会に葬られている。
1682年に結婚し、ロンドンのイスリントンに移り住み、生涯のほとんどをここで月を観測して過ごし、重力について興味をもった。彼が熱中した物の一つに、ケプラーの法則の証明することがあった。1684年にアイザック・ニュートンと議論するためにケンブリッジ大学を訪れた際に、ニュートンが既にそれを証明し何も発表していないことを知ると、発表することを強く勧め、それによってニュートンが『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』を書いたと言われる。
家族と友好関係