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作曲家クルト・ヴァイルの曲モリタート(戯曲『三文オペラ』中の歌)とともに著名であるが、ナチズムが席巻してきた時代状況下、世界の変革を志向する思想的営みから芸術と政治の関わりを追求してゆく過程で、演劇の中に叙事的演劇、異化効果(Verfremdungseffekt <異化、Verfremdung)という概念を持ちこみ、観客が俳優や芝居に感情移入するのを避け、芝居の対象化・観察を通して批判的に観ることを要求する手法を用いた。1950年代から1960年代における安保闘争下で、日本の演劇界に多大な影響を与えた。また、詩、小説、評論の分野にも多くの遺産を残している。
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演劇界で影響力を持つ劇評家ヘルベルト・イェーリンク(Herbert Ihering)に、ミュンヘンで初演した『夜うつ太鼓』を激賞され、クライスト賞を受賞。この作品で、新進劇作家としての地歩を固めた。室内劇場に文芸部員として採用され、マリアンネと結婚したのち、クライスト賞受賞のためにベルリンに上京し、『都会のジャングル』を王宮劇場で初演。
戦後の社会主義政権から、ワイマール共和国の誕生期にかけて、終生の盟友ハンス・アイスラーと協働を開始。この時期にはすでに、二番目の、そして生涯の伴侶となる妻ヘレーネ・ヴァイゲル(Helene Weigel)とも出会っている。マルクス主義の学習をはじめたころ、初期の詩の集大成『家庭用説教集』(家庭用祈祷書 - Hauspostille)を小形賛美歌集の体裁で出版、「悪魔の祈祷書」と呼ばれた。
ドイツ座に文芸部員として採用され、ベルリンに転居。これによって、エリーザベト・ハウプトマン(Elisabeth Hauptmann)、マルガレーテ・シュテフィン(Margarete Steffin)、ルート・ベルラウ(Ruth Berlau)らの協力者を得て、役者と観客の枠を取り払い、ともに学習する新たな演劇、教育劇という形式を生みだすことになる。この教育劇は、1920年代のドイツとオーストリアで労働者の主体的な自己教育と組織化の機会をもたらしたのであった。資本主義における商品取引の矛盾を背景に、暴力とテロ、そして小市民の悲劇を描いた初期の大作『屠殺場の聖ヨハンナ』もまた、これら協力者との協働によって生まれたのである。また、ドイツ座では、巨匠マックス・ラインハルト(Max Reinhardt)の稽古に立ち会って演出法を学ぶ。マルクス主義関連では、国際情勢、政治、経済情勢など、労働者の学習に必要不可欠の知識を、大衆演芸の手法を取り入れながら、分かり易く面白く解説する、いわゆるアジプロ演劇(アジテーションとプロパガンダの演劇)の先駆者エルウィン・ピスカートア(Erwin Piscator)と知遇を得たのも、ここベルリンであった。ベルリンは、ブレヒトが多くの協力者とともに集団で協働しながら、文壇、演劇界、思想界に多大な影響をもたらす作品群を生みだす重要な作業場だったのである。
これら協力者たちとともに、次の大作『第三帝国の恐怖と悲惨』(連作劇)を完成させた。この作品はナチ政権下の小市民が恐怖に怯えて生活しているさまを、寄せ風のコントなどの手法を用いて描いたものである。クルト・ヴァイル(Kurt Weill)の曲で、1920年代から今日に至るまでの大ヒットとなり、ブレヒトといえば、必ず代表作として挙げられる『三文オペラ』は、規模・構想・準備期間やその内容など、いずれの点からみても比較にならない作品であった。『第三帝国の恐怖と悲惨』製作期間中の片手間仕事だったのである。しかし、ヒットせず、現代においてもその知名度は低い。
ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命、突撃隊が公然と暴力を振るいだしたころ、手術のために入院中だった1933年2月?日の国会放火事件の翌日、病院を抜け出し、妻と長男を連れてプラハ行きの汽車に乗り込む。これは、妻ヘレーネ・ヴァイゲルがユダヤ系で、状況が切迫していたと判断したからであった。デンマーク、フィンランド、イギリスなど欧州各国を点々とした後、ヴィザが発給され最後の亡命先、米国に辿り着くのは1941年7月21日のことであった。
概要
生涯
生い立ち・ベルリン生活
バイエルン王国(当時)、ババリア地方のアウグスブルクで、カトリックの父ベルトルト・フリードリッヒ・ブレヒトとプロテスタントの母ゾフィー・ブレヒトの子として生まれる。ミュンヘン大学哲学部に入学し、医学部に転科。第一次大戦中は、招集を受け衛生兵としてアウグスブルクの陸軍病院にて従軍。感染症(伝染病と性病)の病棟を受け持つが、まもなくドイツは敗戦となる。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世はオランダに亡命、バイエルンでもウィテルスバハ?王家が倒れる。亡命生活