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オスマン帝国マケドニア州の州都テッサロニキ(現ギリシャ領)に、税関官吏の子として生まれる。親によって最初につけられたムスリム名は「ムスタファ」であるが、後に、学業が成績優秀であったことからつけられたあだ名に由来する「ケマル」(「完全な」を意味する)という名を後に加えてムスタファ・ケマルと呼ばれた。
軍人を志して陸軍幼年学校から士官学校に進み、1905年に陸軍大学校を卒業。在学中から専制政治をひくアブデュルハミト2世に反感を抱いていたので、配属先のダマスカスで秘密組織「祖国と自由」を作って反体制運動に携わった。
1907年、故郷テッサロニキに転属され、この地で既に青年将校や下級官吏の間に根を張っていた反体制秘密組織統一と進歩委員会(青年トルコ党)に参加。しかし、翌1908年に青年トルコ革命を起こすことになる統一と進歩委員会テッサロニキ支部では既にタラート、エンヴェルらが首脳部となっていたため、一線に立つことはなかった。1909年の反青年トルコ革命の反動派クーデターに際し、テッサロニキから鎮圧に派遣された軍の師団参謀として活躍。その後は委員会から距離を置き、軍務に専念した。
第一次世界大戦中の1915年、首都イスタンブールの喉元にあたるゲリボル(ガリポリ)半島の守備隊を指揮して、上陸作戦を敢行したイギリス軍を撃退する軍功をあげ、救国の英雄としての名声を獲得する。これにより翌1916年、准将に昇進してパシャの称号を授けられた。
大戦終結後、帝国は連合国に分割占領されるが、アナトリア半島に占領反対運動が起こると、折りよく政府によってアナトリアに派遣されていたケマルは、アナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散した帝国軍や統一と進歩委員会の有力者たちを集め、オスマン帝国領の不分割を宣言をまとめ上げて、「アナトリア権利擁護委員会」を結成。抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブールを占領すると、ケマルは首都を脱出した議員たちと権利擁護委員会を糾合、アンカラで大国民議会を開いて、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマル自身を首班とするアンカラ政府を結成した。
ケマルは自身に対する反対者を排除しつつ占領反対運動を革命政権へとまとめ上げ、各地でアンカラ政府の支配地域を拡大。さらに、腹心イスメト大佐とともに自ら軍を率いてアンカラに迫ったギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退し、1922年9月にイズミルを奪還して連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブールのオスマン帝国政府を招聘すると、これを機に帝国政府の廃止とトルコ国家の政府を一本化しようとはかり、11月1日にスルタン制廃止を決議させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
翌1924年にはカリフ制を廃止してメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、新憲法を採択、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を逮捕、追放して、ケマル自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を確立。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文が削除され、トルコ語の表記についてもイスラムと結びつきやすいアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行した。世界恐慌後はソビエト連邦に範を取った計画経済を導入する。
一方、女性のヴェール着用禁止やスイス民法をほとんど直訳した新民法の採用など国民の私生活の西欧化も進められ、1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、政務のため滞在中のドルマバフチェ宮殿(イスタンブール)で急死した。
ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とし後に「ケマリズム」「アタテュルク主義」と呼ばれることになる、トルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと後継者となったイスメト・イノニュの独裁政権は、戦間期のヨーロッパ諸国の指導者にみられた権威主義と比較できる。しかし、彼らと比較すれば、アタテュルクとイノニュは、政変なく政権を守り通すことができたし、巧みな外交政策により第二次世界大戦に至る動乱を中立で押し通すことにも成功した。結果として、トルコは権威主義的政権のうちにあっては成果を収めたと言ってよい。そのためもあって、ケマルは現在もトルコ国民によって大変敬愛されている。特に、世俗主義推進派にとっては、ケマル個人崇拝と結びついた「ケマリズム」「アタテュルク主義」は不可侵のトルコ共和国の基本原理であり、この保持のために1960年と1980年の二度に渡る軍部のクーデターですら容認されてきた。
ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる。
また、イスタンブールには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。2003年現在、トルコ共和国の通貨であるトルコリラ(略称TL)は、最小貨幣の5,000TLから最大紙幣の20,000,000TLまで全てにアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。