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アントン・ブルックナー(Anton Josef Bruckner, 1824年9月9日 - 1896年10月11日) は、オーストリアの作曲家、オルガン奏者。特に交響曲の作曲家として知られている。
| Table of contents |
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2 作品 |
1841年に小学校教員になるとともに、作曲を独習した。彼はフロリアン聖堂、聖アウグスチヌスの修道院で勉強し、1851年にそこのオルガン奏者になった。
40才になるまで、ジーモン・ゼヒターに和声法と対位法を、オットー・キッツラーに管弦楽法を学んだ。1855年にはリンツ大聖堂の正オルガン奏者に就任した。
1863年ごろからはリヒャルト・ワーグナーの音楽を研究し、まもなく最初の作品「ミサ曲ニ短調」を書いた。
ブルックナーは非常に信心深いローマカトリック教徒であった。1868年には、ゼヒターの後任としてウィーン音楽院で音楽理論の教授として就任した。
この時以来、彼は大部分のエネルギーを交響曲を書くことに集中させた。しかし、これらの交響曲は十分に評価されなかった。「野蛮」で「無意味である」と思われた。
1875年にウィーン大学(ただし無給講師)に就任した。
批評家エドゥアルト・ハンスリックの影響の強いウィーンにおいて、彼の作品は不当な評価を受けた。当時、ワーグナーの音楽を好む人々とヨハネス・ブラームスの音楽を好む人々の間に確執があった。ワーグナーに共鳴したことで、ブルックナーはハンスリックから敵対された。
ブルックナーの支持者には、アルトゥール・ニキシュとF・シャルクのような有名な指揮者がいた。
ブルックナーの芸術的な能力に対する自信の証しは、彼が交響曲の作曲を終えると数日後に新しい交響曲に取り組んだいうことである。
ブルックナーは、交響曲に加えて、多数のモテットと宗教的な合唱作品を書いた。
非常にロマン的ともいえる交響曲と異なり、ブルックナーの合唱作品は保守的で、対位法のスタイルを保っている。
ブルックナーは、当時は有名なオルガン奏者であり、1869年にフランスで、そして1871年にイングランドで観衆に感銘を与えた。そして、ロンドンとロイヤル・アルバート・ホールとクリスタル宮の新しいヘンリー・ウィリス・オルガンで、6回の演奏会を開いた。
しかし、オルガンのためには後世に残る作品を書かなかった。
彼の即興演奏は、しばしば交響曲のアイデアを生んだ。
ブルックナーは、音楽学校でオルガン演奏法を教えた。
学生の1人がハンス・ロットであり、彼の音楽はグスタフ・マーラーに大きな影響を与えた。
ブルックナーはウィーンで死んだ、そして、交響曲第9番は1903年2月11日にウィーンで初演された。
ブルックナーはたくさんの若い女性に求婚したけれども、生涯結婚することはなかった。
すべての交響曲は、2管編成の木管楽器、4本のホルン、2ないし3本のトランペット、3本のトロンボーン、チューバ、ティンパニと弦楽器による標準的なオーケストラのために作曲されている。
後の交響曲ほど、必要な人員は増えている。
オットー・キッツラー(ブルックナーの作曲の教師)は、学習の総仕上げとして3つの最終課題-合唱、序曲、そして交響曲-を課した。
最後のものは、1863年に完成した習作交響曲ヘ短調(別名第00番)である。
ブルックナーは後でこの作品を放棄したが、それを捨て去ることはなかった。
その作品はロベルト・シューマンのような過去の作曲家の作品を思い出させる一方、トランペットが活躍する最初の楽章、そしてスケルツォにおいて、疑うことのないブルックナーのスタイルの特徴が現れている。
フィナーレはおそらく少し弱い。キッツラーがこの曲の長所を認めることができず、「あまり啓示を受けていない」とコメントした。
この曲は、1924年に初演されて、1973年まで出版されなかった。
交響曲第1番ハ短調は1866年に完成した。しかし、この交響曲の原典版は1998年まで復元されなかった。
その代わりに、それは2つの版、主に1877年にリズムが改訂されたリンツ版と、いくつかの点で交響曲第8番の響きを持つ1891年に全面改訂されたウィーン版がある。
次は1869年ののいわゆる交響曲第0番ニ短調である。残念なことに、批判を浴びて放棄されたが、非常に魅力的な作品である。この曲は、ブルックナーが生きているうちにはまったく演奏されなかった。
スケルツォには、多くの改訂を経た後の作品には欠けているよう躍動感がある。
1873年、1876年、1877年と1892年に改訂されたのは交響曲第2番ハ短調(明らかにブルックナーの好む調性の一つ)である。
オーケストラ全休止がしばしば劇的に用いられており、そのための「休止交響曲」と呼ばれている。
1872年版であるカラガン版においては、スケルツォが第2楽章に置かれ、第3楽章がアダージョになっている。
ブルックナーは交響曲第3番ニ短調(第2番とともに1873年に書かれる)をヴァーグナーに献呈した。ブルックナーは第2番と第3番のどちらを捧げるたらよいかヴァーグナーにに尋ね、ヴァーグナーは第3番を選んだ、
ブルックナーはすぐに楽譜を送った。それはこのヴァーグナー交響曲の原典版が1874年、1876年、1877年と1888/89年と改訂されたにもかかわらず、残っている理由でもある。
ヴァーグナーがどの交響曲を受け入れるべきかについて選ぶのを助けた理由は、第3番がヴァーグナーの楽劇、『ヴァルキューレ』や『ローエングリーン』からの引用を含むことである。
これらの引用の一部は、改訂版において採用されている。
グスタフ・マーラーとルドルフ・クリジャノフスキー?(Krzyzanowski)は、この交響曲のピアノ連弾版を作った。
ブルックナーの最初の成功は交響曲第4番変ホ長調であた。これは一般にロマンティック交響曲として知られている。
成功となったのは初演直後ではなく、1878年に全く新しいスケルツォとフィナーレに置き換えられ、1880/1881年にフィナーレが再度改訂された後のことである。
指揮者ハンス・リヒターによる1881年の演奏の大成功にもかかわらず、ブルックナーは1886-1888年の間にさらに改訂をした。
1874年版はいくぶん繰り返しが多いが、聞くのは面白い。
交響曲第5番変ロ長調は交響曲作曲活動の最盛期の産物であり、1876年の始めに完成した。
残念なことに原典版は残っていないようである、1878年の改訂版だけが残されている。 この交響曲が対位法におけるブルックナーの最高傑作であると考えられる。
たとえば、フィナーレはフーガとソナタ形式が結合された楽章である。
交響曲第6番イ長調(1879-1881年に作曲)は、あまり取り上げられない作品である。
交響曲第5番ではブルックナー・リズム(3+2)がまったく見られないのに対して、この曲では全体で聞かれる。
おそらく、特に第1楽章にこの作品のリズム上の問題があり、この作品があまり演奏されない理由の一部である。
交響曲第7番ホ長調は、初演時から現在まで、衰えぬ人気がある作品である。
この曲は1881-1883年に作曲され、1885年に改訂された。
ブルックナーがこの交響曲の作曲を開始したとき、彼はヴァーグナーの死が差し迫っていることを知っていた、そして、アダージョはヴァーグナーのためのゆったりとしたテンポの哀調をおびた音楽である。ブルックナーの全作品では初めて、ヴァーグナー・チューバがオーケストラに使われている。
この楽章には、ブルックナーが最高潮のシンバルの楽譜を書いた瞬間に、ヴァーグナーが死んだという伝説がある。
アルノルト・シェーンベルクは、この作品の室内アンサンブル版を編曲した。
ブルックナーは1884年に交響曲第8番ハ短調の作曲を開始した。しかし、この曲は1887まで完成されなかった。
ブルックナーは交響曲第7番を大成功に導いた指揮者ヘルマン・レヴィに楽譜を送ったが、レヴィは、まったくこの作品が理解できず、演奏を拒否した。ブルックナーは自殺せんばかりになった。
しかし、時々F・シャルクの助けを得ながら、1890年にこの新しい版を完成させた。
最初の版では、第1楽章は他の交響曲同様フォルティッシモで終わる。しかし、改訂版では、第1楽章をピアニッシモで終えることにより、音楽表現をより劇的なものとした。
また、スケルツォをよりすっきりとさせ、アダージョ中の音域を変えて、シンバル部の手入れをして、フィナーレの最後を変更した。
ブルックナーの最後の作品は交響曲第9番ニ短調である。それは1887年に書き始められた。
最初の3つ楽章は1894年の終わりに完成した。しかし、1896年の彼の死の時までに、彼は終楽章を完成されることができなかった。
しかし、彼は全体的なスケッチを残しており、これらのスケッチを完成して、演奏しようという試みがあった。ある程度成功した試みはジョンA.フィリップのチームによる補筆版と、それらとウィリアム・キャラガンによる補筆版である。
ブルックナーは終楽章として彼のテ・デウムを使う案も示した。これはベートーベンの第9交響曲(同じくニ短調)に対する敬意を示すことでもある。しかし、彼は交響曲を完成することに集中していた。
交響曲の最初の3つの楽章が演奏される現今は、終楽章を補筆することの試みの録音を聞く価値はある。
日本においては、朝比奈隆がブルックナーを積極的に取り上げ、評価が高く、多くの録音が残されている。
生涯
アントン・ブルックナーは、小学校教員兼オルガン奏者を父として、オーストリアの片田舎アンスフェルデンで生まれた。13才より聖フローリアン少年聖歌隊で歌い、音楽に親しんだ。作品
ブルックナーの作品はWAB (Werkverzeichnis Anton Bruckner) 番号によって参照されることがある。そして、ブルックナーの作品のカタログはレナート・グラスベルガーによって編集されている。交響曲
ブルックナーの交響曲は4つの楽章で構成されている。そして、しばしば第3主題まで持つアレグロの拡大されたソナタ形式で始まり、緩徐楽章、スケルツォ、拡大されたソナタ・アレグロの楽章で終わる。ブルックナーの交響曲の指揮者
ブルックナーの最も有名な指揮者のうちの2人をあげると、ゲオルク・ティントナーとギュンター・ヴァントであろう。前者は、レオポルド・ノヴァークとウィリアム・キャラガンの原典版を録音し、後者はハースによって編集された版によっている。
第3で、第4で第8の交響曲の原典版を最初に録音したにエリアフ・インバルにも注目すべきである。ブルックナーの交響曲の特徴
第1楽章が弦楽器のトレモロで始まり、雄大な第1主題が浮かび上がってくる手法であり、交響曲第2番、第4番、第7番、第8番、第9番に顕著に見られる。
楽章の第1主題から第2主題への移行など、曲想が変化するときに、中間的な旋律を設けることをせず、管弦楽全体を休止させ、別の主題を開始する手法であり、交響曲第2番で顕著である。
4拍子の後半2拍子を3連符として (2+3) によるリズムを随所に設ける手法で、交響曲第4番、第6番で特徴的である。(3+2) になることもある。
ひとつの音型を執拗に繰り返しながら、音楽を盛り上げていく手法。いたるところに見られる。
オルガンの響きのようなオーケストラ全体によるユニゾン。ゼクエンツと共に用いられて効果を上げる。