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生い立ちと幼年期
彼は、レオナルド・ダ・ヴィンチの友人で数学の才能に恵まれた弁護士の私生児であった。カルダーノは自叙伝で、母親は彼を中絶しようとして失敗した、と伝えている。母親は他の3人の子供を伝染病で失い、それから逃れるために彼が生まれて間もなくミラノからパヴィアに移った。1520年にパヴィアの大学に入学し医学を学び、後に薬学を学ぶためにパドアの大学へと変わった。彼は非常に対立的な気性だったため友人は殆どおらず、大学を卒業してからも長い間仕事につくことができなかった。
最終的に彼は医者となり、後には注目すべき医者としての名声を得、彼の意見は裁判所で尊重されるほどであった。発疹チフスの発見者でもある。
数学の業績
今日では代数学の業績で最も良く知られている。1545年に著した本 偉大なる術 (la: Ars magna de Rebus Algebraicis) のなかで 3 次方程式の解の公式、4 次方程式の解法を示した。3 次方程式の解はニコロ・タルタリアが創作、発見し秘蔵していたもので、カルダーノが絶対公表しないと誓いを立てたので教えたものである。これが元でタルタリアは怒り、カルダーノと長い論争をすることになる。また、4 次方程式の解についてはカルダーノの弟子であったロドヴィゴ・フェラリが解いたものである。どちらの式もこの本で広く知られるようになった。これらの業績は他人のものだが、3 次方程式の解を示す際に世界ではじめて虚数の概念を導入した。
彼は金遣いが荒いとの評判で知られており、本人は自身を賭博者、あるいはチェスのプレーヤーだと考えていた。しかしそれだけには留まらず、1560年代にさいころあそびについて(Liber de ludo aleae、発行されたのは彼の死後1663年)を著し、そのなかで効率的なイカサマの方法として、はじめて系統的に確率論について触れて記した。