Guajara in other languages: Spanish, Deutsch, English, French, Italian ...



コンスタンティノポリス

コンスタンティノポリス(ギリシャ語:Κωνσταντινούπολις、ラテン語:Constantinopolis)は、コンスタンティノープル(英語:Constantinople)ともいう(西洋史の分野では、英語名の音訳のコンスタンティノープルが一般に使用されるが、哲学・思想学の分野でエレニカ語(ギリシャ語)文献の翻訳の際は、コンスタンティノポリスがもっぱら使用される)。 330年コンスタンティヌス1世が建設したローマ帝国第2の首都東ローマ帝国 (ビザンティン帝国・ビザンツ帝国) の首都。コンスタンティノポリスとは、「コンスタンティヌスの町」の意味。コンスタンティヌス帝自身は、この都市をノウァ・ローマ(新ローマ)と名づけ、この名称はキリスト教の宗教会議の公会議においても使用された。
古くは古代ギリシャ以来のビュザンティオンΒυζαντιον(ラテン語名ビザンティウムByzantium)という街であり、のちにオスマン帝国のもとでイスタンブールと呼ばれるようになる。
古来より東西交易ルートの要衝であり、1204年に第4回十字軍の攻撃を受けるまでは30万~40万の人口を誇るキリスト教世界最大の都市として繁栄し、「第2のローマ」「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。また東方正教会の長であるコンスタンティノポリス総主教座が置かれ、東方正教会の中心として、またビザンティン文化の中心として栄えた。守護聖人聖母マリア。現在でも東方正教会・アルメニア正教会はコンスタンティノポリス総主教座を置いている。

注-コンスタンティヌス(ラテン語。ギリシア語では「コンスタンティノス」)。

Table of contents
1 コンスタンティノポリスの歴史(330-1453)
2 古代ローマ帝国~東ローマ帝国時代の主な建造物
3 参考文献
4 参考になるwebサイト

コンスタンティノポリスの歴史(330-1453)

コンスタンティノポリスは長大、強力な城壁の守りによって知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて攻撃をたびたび跳ね返した。また古代の建造物が残る大都市として、1204年までその偉容を誇った。

古代末期の繁栄(330-610頃)

コンスタンティヌスが330年5月11日に開都式を行った時、まだコンスタンティノポリスはローマ帝国の一地方都市の域を出ていなかった。市域もコンスタンティヌスがビュザンティオン時代より大幅に拡大させたが、後代より狭かった。コンスタンティヌスの後継者達もこの街に常住せず、ようやくテオドシウス1世(在位:379-395)の時代になってから皇帝が常住するようになった。

テオドシウス1世の死後、ローマ帝国が東西に分割統治されるようになると東ローマ帝国の首都となった。首都としての実質を伴うようになるにつれて人口は急増、それに伴って現在も残っている難攻不落の「テオドシウス(2世)の城壁」が建設されて市域が大きく広げられた。
ローマ市が、410年の西ゴート人による占領・掠奪以後に急速に衰退していったのに対して、コンスタンティノポリスの人口は増加し、西ローマ帝国が滅亡した476年頃になると東ローマ帝国の人々には「コンスタンティノポリスは第2のローマ」という意識が芽生え、実際ローマに代わる大都市へと成長していった。市内には、宮殿やハギア・ソフィア大聖堂を始めとする教会、大浴場や劇場といった公共施設が数多く作られ、6世紀の皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527年-565年)の時代には地中海世界最大の都市として栄えた。市民にはパンが無料で支給されるいっぽう、競馬場では連日競馬が開催され市民はそれに熱狂していた。

暗黒時代(610年頃-717年頃)

ユスティニアヌス1世の死後、東ローマ帝国は急速に衰退し、領土は縮小。7世紀になるとササン朝ペルシャやアヴァール人、イスラム帝国などが次々と首都を包囲した。特に674-678年にはイスラムの海軍に毎年包囲された。この危機は秘密兵器ギリシア火薬(一種の火炎放射器)によってイスラム海軍を撃退することに成功したが、この間にパンの支給は廃止され、市民の人口も激減、水道や大浴場といった公共施設も打ち棄てられ、市内には空き地が目立つようになってしまった。

再興と黄金時代(717頃-1070年頃)

8世紀に皇帝レオーン3世(在位:717-741)が、718年にイスラム帝国の大遠征軍を撃退し、徐々に東ローマ帝国が国力を回復させていくと、コンスタンティノポリスにも再び活気が戻ってきた。766年には人口増加に対応するために水道が修復された。競馬に熱狂していた古代の市民に代わって、絹織物や貴金属工芸などの職人や東西の貿易に従事する商人などが住む商工業都市として甦ったのである。

東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9-10世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院のような慈善施設も建てられた。古代ギリシア文化の復活と、それを受けたビザンティン文化の振興も進み、コンスタンティノポリスは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシアブルガリアイスラム帝国イタリアエジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の東ローマ帝国の全盛時代には人口30-40万人を擁する大都会となった。

十字軍による帝都陥落(1070年頃-1204年)

首都の繁栄は11世紀後半になると、帝国がセルジューク帝国の攻撃などを受けて弱体化するようになり、いったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝(1081-1185)の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、再び国際交易都市として繁栄した。しかし、11世紀以降東地中海に勢力を伸ばしたヴェネチアは、東ローマ帝国と段々対立を深め、1204年の第4回十字軍ヴェネチアの教唆などを受けてコンスタンティノポリスを海から攻撃した。4月13日、コンスタンティノポリスは陥落し、十字軍による暴行・虐殺・掠奪が行われた。

荒廃するコンスタンティノポリス(1204年-1453年)

十字軍がコンスタンティノポリスを首都として建てたラテン帝国(1204年-1261年)は存立基盤が弱く、ヴェネチアの海軍力に頼り切っていた。このためコンスタンティノポリスにあった美術品や宝物はほとんどヴェネチアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。

1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、守備兵不在中のコンスタンティノポリスを攻撃して占領した。これによって東ローマ帝国が復活したが、東ローマ帝国の国力も以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4-7万に減少し、貿易もヴェネチアやジェノバといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。14世紀になるとオスマン帝国軍に度々包囲を受け、東ローマ帝国も首都も風前の灯火状態となってしまった。

ただ文化だけが最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。この文化の繁栄は、当時の皇室の姓を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。

コンスタンティノポリス最後の戦い(1453年)

1453年4月、コンスタンティノポリスは10万のオスマン帝国軍の攻撃を受けた。オスマン側は大型の大砲を用い、艦隊の陸越えによる大規模な攻囲を行なった。

それでも東ローマ側はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2ヶ月に渡って抵抗を続けた。しかし5月29日未明、閉め忘れた城門からオスマン軍が侵入して、ついにコンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅んだ。(詳細はコンスタンティノープルの陥落を参照)

古代ローマ帝国~東ローマ帝国時代の主な建造物

  • ハギア・ソフィア大聖堂(現在のアヤ・ソフィア博物館)-帝国最大の教会。ビザンティン建築の最高傑作。ドームの構造に問題があり、モスクに転用されたオスマン朝時代にバットレスを増築して補った。
  • 聖諸使徒聖堂-歴代皇帝の多くが埋葬された教会だが現存せず。ヴェネチアの聖マルコ教会のモデル。
  • 「テオドシウスの城壁」-難攻不落の大城壁。いまでも一部が現存
  • 大宮殿-歴代皇帝の住んだ宮殿で、盛時には絢爛豪華さを誇った。現在では一部の床モザイクのみが残存
  • 競馬場-競馬競技だけではなく、7世紀頃までは皇帝即位式も行われた。今ではオベリスクのみが現存。
  • コーラ修道院(カーリエ・ジャミイ)-東ローマ末期のフレスコ画で有名。現存。
  • ヴァレンス帝の水道橋-19世紀まで使われた古代ローマ時代の水道橋。現存。
  • 「地下宮殿(イエレバタン・サライ)」-地下貯水池
  • ブルケラナエ宮殿-市内北東部にあった、12世紀以降の皇帝が主に居住した宮殿。現存しない。
  • コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿-帝国末期の宮殿。いまでも一部が現存。

参考文献

歴史書など

  • 尚樹啓太郎『コンスタンティノープルを歩く』(東海大学出版会)
  • ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥワン『コンスタンチノープル征服記―第四回十字軍』(講談社学術文庫)
  • スティーヴン・ランシマン『コンスタンティノープル陥落す』(みすず書房)
  • 井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)
  • 井上浩一・粟生沢猛夫『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論社)
  • 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会)

歴史小説

参考になるwebサイト





Wikipedia - All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

Tagoror dot com  -  Legal Information  -  Contact us