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ニコラエ・チャウシェスク

ニコラエ・チャウシェスクNicolae Ceauşescu, 1918年1月26日 - 1989年12月25日)はルーマニア共和国元首1965年、ルーマニア共産党第一書記。1967年、国家評議会議長となり元首になる。1974年大統領制が導入されると初代大統領を勤めた。1989年12月に起きたルーマニア革命で失脚し処刑された。

彼は一般国民とはかけ離れた大宮殿に住む優雅な生活をしており、国内の経済については、側近の者から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったと言われる。街頭へ視察へ出ても視察コースの店には一時的に普段は見かけない食品や製品が豊富に並べられていたようだ。

1989年当時、ルーマニアは貿易赤字に苦しんでおり、生活水準の低下しており、また秘密警察などの監視による言論の統制などで不満分子を抑圧していたが、西側の情報が僅かに入るにつれついに民衆の不満が爆発したと伝えられている。しかし革命の詳細に関しては今なお不自然な状況が多い。

1989年12月、ハンガリー系国民による反政府集会を武力で鎮圧。同12月21日、ブカレストの共産党広場で開かれた官製集会が一転、このことを糾弾する集会になると、国民の自由獲得への反政府デモや暴動が全国各地で起こりチャウシェスクは逃走した。これらの様子はルーマニア国営テレビを通じ全国に放送された。翌22日、全土に戒厳令を敷き、チェウシェスクは夫人とともにヘリで逃走を試みる。22日13時、救国戦線は国営テレビ、ラジオ局を掌握。同17時、救国戦線が政権を掌握し、23日にはチャウシェスク夫妻は救国戦線により逮捕される。25日、救国戦線はチェウシェスク夫妻を、60000人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻有罪の判決を下し、その場で銃殺刑に処せられた。この様子は全世界に放送された。この放送は、チャウシェスクが対外的には清貧な大統領を装う一方で、残忍な独裁者であったという印象を強くした。即刻銃殺刑に処したこと、西側諸国に公開したことを見ても分かるとおり、如何に大統領が国民を押さえつけ恐れられていたかがよく分かる。

処刑後

しかし、大量虐殺の形跡や、不正蓄財の証拠は全く見つからなかった。1990年、自由選挙による国会が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が2党に分裂する遠因にもなった。現在、大量虐殺と不正蓄財はなかったものと考えられている。

末期のチャウシェスク政権は、他の長期政権がそうであるように、チャウシェスク本人ではなく、高級官僚化した共産党幹部らが実質的な権力を握っていた。しかし、当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相はいまだに明らかになっていない。革命の際も、集会の現場にルーマニア人のジャーナリストがおらず、外国の報道機関しかいなかったこと、革命の際、国軍・大統領親衛隊を超える能力の武力が使われた形跡があることなど、きわめて不自然でいまだ説明されていない状況が数多く残っている。


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