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1874年から1878年までグラマースクールで勉強し、ロンドンのインターナショナル・カレッジで2年間を過ごした後、父親の仕事の見習いをするが肌に合わず、オレンジの栽培をしたいと父を説得した彼は、海を越えてアメリカへ渡った。 フロリダ到着した彼は、ピアノを購入し、ジャクソンヴィルのオルガン奏者、トーマス・ワードに音楽理論を学んだ。黒人労働者の歌曲にも触れ、1886年から1887年に『フロリダ組曲』を書き下ろした彼は、その後、バージニア州のダンヴィルへ赴き、自信を持って音楽を教えていた。
父親のユリウスは、息子の希望に応えて1886年(24歳)から1888年(26歳)までライプチヒ音楽学校で学ばせた。彼はその後パリに行き歌劇の作曲を始めるが、自らの作品を聞く機会に恵まれたのは1897年、オスロでの Folkeraadet の為の付随音楽を作曲し、その公演に行った時のことである。その後間もなく、ドイツで自らの管弦楽作品、『丘を越えて遥かに』の演奏が行われ好評を博した。1899年には彼の作品のみの演奏会がロンドンで開かれたが評価は賛否両論であった。
1896年、34歳の時に彼はパリで画家のジェルカ・ローセンに出会い、1903年に41歳で彼女と結婚する。その頃から英国式にフレデリックと名乗るようになった。
彼は、出身地であるイギリスに於て特に高い評価を得ているが、それは指揮者のトーマス・ビーチャムに依るところが大きいと思われる。ビーチャムは、彼の作品を率先して評価し、演奏に取り上げており、1961年に亡くなるまで、その姿勢を変えることはなかった。
1888年以後、ディーリアスはフランスに定住し、他国に住むことはなかった。1922年に性感染症が原因で全身麻痺にみまわれ、1925年には失明、筆記者としてエリック・フェンビィ (Eric Fenby、1906 - 1997) を雇用した。フェンビィは後にディーリアスについての著書を出版している。イギリスの映画監督、ケン・ラッセル(Ken Russell) によって後にフェンビィの書をもとにしたテレビ・フィルム、映画『夏の歌』が製作されている。
ディーリアスは1934年6月10日に死亡したが、ちょうどその1年後、妻が亡くなった。夫妻はロンドンから約30Km南に位置する Limpsfield に埋葬されている。
ディーリアスの作品
上記の他、フェンビーの口述筆記による作品が多数ある。