Guajara in other languages: Spanish, Deutsch, English, French, Italian ...



ガイウス・ユリウス・カエサル

zh-cn:恺撒

ガイウス・ユリウス・カエサルラテン語 : Gaius Iulius Caesar, 紀元前100年7月13日 - 紀元前44年3月15日)は、古代ローマ政治家で軍事的指導者。また文筆家としても有名。呼び名に関しては英語読みでジュリアス・シーザー(Julius Caesar)と呼ばれ、同名のシェークスピアによる戯曲がある。またドイツ語ではツェーザーと読まれることもある。ルビコン川を渡る際に残した「alea iacta est(は投げられた)」や、ブルータスに暗殺された際に残した「tu quoque, Brute(ブルータス、お前もか)」という言葉は有名。ドイツローマ法学者であるモムゼンにより、「ローマが生んだ唯一の創造的天才」とされた。

Table of contents
1 生涯
2 業績
3 評価
4 主な著作
5 カエサルを描いた作品
6 関連項目

生涯

生い立ち~政治キャリアのスタート

ローマ共和国の古くからの貴族であるユリウス一門のカエサル家の子としてローマに生まれる。叔父が民衆派のガイウス・マリウス。紀元前84年にコルネリア (Cornelia) と結婚。コルネリアは、ルキウス・コルネリウス・キンナの娘であった。マリウスやルキウス・コルネリウス・キンナの政敵であるルキウス・コルネリウス・スッラが独裁官になると、スッラはカエサルとコルネリアとの離婚を命じたが、カエサルは従わず、紀元前81年ローマから逃走した。スッラが紀元前78年に逝去すると、ローマに帰還した。コルネリアは紀元前68年に逝去し、その後はスッラの孫であるポンペイア(Pompeia)と結婚した。ポンペイアは裕福だったため、カエサルはその財産を買収や陰謀に使い、政治的なキャリアを上げていった。紀元前65年には高級按察官(aedilis curulis)に就任。紀元前63年には最高司祭 (pontifex maximus) に就任。紀元前62年には法務官(praetor)に就任した。しかし、カエサルには多くの妾がおりスキャンダルとなったため(カエサルには「ハゲの女たらし」という異名がある)、紀元前62年にはポンペイアとも離婚となった。

三頭政治

紀元前60年、ポンペイウス、クラッススと共に三頭政治を結成する。民衆から絶大な支持を誇るカエサル、軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時小カトーを中心に強大な権力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。この勢力を後ろ盾にしてカエサルは執政官当選を果す。

ガリア遠征

ガリア戦記を参照。

ローマの内乱

カエサルがガリアに遠征していた紀元前53年、三頭政治の一角であるクラッススがパルティア王国攻略中に戦死した。これにより、三頭政治は崩壊し、元老院派に取り込まれたポンペイウスとカエサルとの対立が顕在化する。
紀元前49年カエサルのガリア属州総督解任および本国召還を命じる元老院最終勧告が発布される。これに対しカエサルはローマへの進撃を決意する。ローマ国境のルビコン川を渡る際、彼は有名な言葉「alea iacta est(賽は投げられた)」を残している。全文を記す。「ここを超えれば、人間世界の悲惨。超えなければ、わが破滅。さあ進もう。神々の示現と卑劣な政敵が呼んでいる方へ。賽は投げられた。」
ルビコン川を越えたカエサルの行動は迅速だった。即日リミニ入城、アドリア海沿いにイタリア半島の制覇を目指した。対するポンペイウスは軍団編成もままならず、首都ローマを放棄、カエサルの追撃を辛くも逃れ、ギリシアに脱出。これによりカエサルはローマの実質的な支配権を手中にした。
ローマにもどったカエサル2回目の執政官当選を果し、万全の体制でギリシアのポンペイウスを追撃する。緒戦のドゥラキウムの戦いでは撤退の憂き目にあったものの、ファルサルスの会戦で圧勝。ポンペイウスは逃亡先のアレクサンドリアで殺害される。

アレキサンドリア

ポンペイウスの死を知ったカエサルはエジプトの首都、アレキサンドリアに上陸した。当時、エジプトでは先王プトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟の間で後継者争いが繰り広げられていた。カエサルはクレオパトラ7世側に味方し、弟王をアレキサンドリア戦役にて打ち破った。カエサルがクレオパトラ7世に与したのは篭絡された為とされ、この史実を指してフランス哲学者ブレーズ・パスカルは「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」と著書パンセで述べている。
さらに、カエサルは小アジアまで足を伸ばし、ポントスの王、ファルナケスを破った。この時に元老院に送った戦勝報告が、かの有名な「Veni, Vidi, Vici (来た、見た、勝った)」である。
かくして紀元前47年、カエサルはローマに凱旋し、熱狂的な市民の歓呼に迎えられ、任期5年間の独裁官に任命された。

終身独裁官~暗殺

紀元前46年、北アフリカにてポンペイウス軍の残党を討ち果し(タプトスの会戦)、その支配権を確固としたカエサルはローマ共和国の改革に着手する。属州民に議席を与えることで元老院への権力集中を防ぎ、機能不全に陥っていた市民集会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化を図り、さらに自らが終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで、統治能力の強化を図ったのである。この権力集中のシステムは皇帝として、後継者のアウグストゥスに引き継がれ、ローマ帝国誕生の礎となった。
カエサルへの権力集中に対し危機感を抱いたブルートゥス、カシウスらにより、紀元前44年3月15日カエサルは元老院会議場にて暗殺された。遺言にて養子のオクタウィアヌス(アウグストゥス)が後継者に指名された。

業績

評価

主な著作

カエサルを描いた作品

関連項目





Wikipedia - All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.

Tagoror dot com  -  Legal Information  -  Contact us